病証と〈気〉〈内気〉〈五蔵〉の関係

季節の移り変わりに見る〈気〉

 前回、私は、中国医学の病態認識形成の特徴として三つの点を指摘した。

 第一は体内にある臓器や血液などの解剖学的実体を、その〈物〉としてのイメージを引きずったまま不可視の〈気〉に転じたこと、第二はそれを陰陽五行説でカテゴリー化したこと、第三は自覚的あるいは他覚的な生理的・病理的現象(外形)を、カテゴリー化された〈気〉の体系によって解析し、説明したことである。この解析と説明こそ、現在いうところの蔵象学であり、病証学である。

 ところで、こうした〈気〉による現象の解釈は、中国医学に特有のものではなく、中国古代の自然学の認識の一つにすぎない。〈気〉と現象の表れは、たとえば春夏秋冬とその変化に対する認識の中に典型的に現れている。

 たとえば、春の気候は、〈春気〉の働きとされる。しかし、〈春気〉なるものは存在しない。暦は春とはいえ、なお真冬と変わらない厳しい寒さ、晩秋から初冬には見られない空の明るさ、地表における雪の消失、氷解による河川の水量の変化、草花は芽生え、樹木は花を咲かせ、野山を美しく彩り、それまで何カ月も見ることのなかった虫や動物が姿を見せる……。東アジアの季節の歳時記というべき七十二候に「東風解凍(はるかぜ、こおりをとく)」、「魚上氷(うお、こおりをはいずる)」、「桃始笑(もも、はじめてさく)」と美しく表現される、その総体が〈春気〉の実体である。
 こうしたことからもわかるように、原因であるはずの〈気〉とは、実は一定の現象の総和、結果なのである。

 中国の〈気〉の自然学には、いくつかの特徴がある。一つはその時節にふさわしい一定の現象が様々なカテゴリーで横断的、かつ一斉に起こるということである。もう一つは、この〈気〉には時間的変遷がある。つまり時間の経過とともに、その〈気〉の極点において別の〈気〉に移行する。
 春は夏に変わり、秋は冬へと移行し、終わりなく循環する。この時間的な変化こそ、自然界における〈気〉の存在の根拠である。この変遷は寒暑や春夏秋冬、二十四節気、七十二候、あるいは「五運」や「六気」など様々に呼ばれる。

 ただし、同時に忘れてはならないことは、その法則や循環(順)には、そこからの逸脱(逆)という要素が常態として織り込まれているということである。寒冷の夏や温暖の冬がそれである。それらは個々の場面では異常であるが、長い時間のスタンスの中では常態である。順と逆は対立しながら、実は一つのものの両面である。

ポイント

  • 〈気〉による現象の解釈は、中国古代の自然学の一つ!
  • 春夏秋冬、時間的な変化は自然界における〈気〉の存在の根拠!
  • 寒冷の夏や温暖の冬のような「逆」の要素が常にある!

中国医学古典による人体内の〈気〉の説明

 一方、人体の〈気〉、つまり〈内気〉と生理現象あるいは病症状を説明する方法は、自然を説明する場合よりも、一層複雑である。

 〈内気〉のカテゴリー化とは、〈気〉をただ一つと見なさず、〈内気〉を構造化し相互に関係づけることによって、病態を構造的に把握しようとする考えにつながっている。こうした考え方は、症状や病名に特効穴や特効薬を直接結びつける経験治療や、一つの〈気〉の滞りや偏りをもって病態の根本原因とする〈一気留滯〉的な考えとは対照的である。

 中国医学古典の中に見られる〈内気〉には、深部の五蔵六府、表層の経脈、そして〈内気〉の様々な変形である精神、気血、営衛、津液などがある。また病理の分野では痰飲がある。しかし、古来、〈内気〉の第一と考えられてきたのは、五蔵である。

 五蔵の蔵象は、『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』の諸篇に散見するが、蔵象の条文は『素問』に顕著である。特に金匱真言論、陰陽応象大論、霊蘭秘典論、六節蔵象論、五蔵生成篇、宣明五気篇、五運行大論などには総括的な記載が見られる。

 『素問』の最初の部分に蔵象の記載が集中しているのは、現行本『素問』の再編者である王冰の意図が働いていると考えられる。

 なお、これまでしばしば使ってきた「蔵象」という言葉は、六節蔵象論に見られるものである。

 『霊枢』では本輸、邪気蔵府病形、本神、本蔵、五味の諸篇に比較的まとまった記載が見られる。

 この『素問』『霊枢』に見える蔵象については、唐代では楊上善『黄帝内経太素』巻第六・蔵府之一が、宋元以降では朱丹溪『素問糾略』形体蔵府性情略、滑寿『素問鈔』蔵象、張介賓『類経』蔵象類、李中梓『内経知要』蔵象、汪昂『素問霊枢類纂約註』蔵象などが五蔵およびその他の関連条文を集めて注解を加えており、参考になる。

 『素問』『霊枢』諸篇に述べられた藏象は、蔵の陰陽(陽中の陽は心など)、蔵府の表裏関係、蔵府と経脈の関係といった基礎論から、五主(筋脈肉皮骨)や五竅(目舌唇鼻耳)、五神(魂神意魄志)、五色(青赤黄白黒)、五味(酸苦甘辛鹹)、五液(涙汗涎涕唾)など五蔵所管の各分野に及んでいる。

 また診察の分野で最も重要視されるのは、五蔵の脈証と病証である。特に五蔵の脈診は、春夏秋冬の脈状を土台として行われる。それは五蔵それぞれが、〈気〉という点において、春夏秋冬と対応関係にあるとの認識が根底にあるからである。病証については、その蔵が病んだ場合、あるいは虚実の場合の典型的な病症状を挙げる場合が多いが、『素問』痺論に見られるように、特定の病証を「肺痺」「肝痺」のように五蔵分類するという方法も採用されている。その他、蔵の病には五蔵の間における〈伝変〉がしばしば問題となる。

ポイント

  • 中国の医学古典は五臓を中心に人体内の気を説明している!
  • 診察の分野で最も重要視されるのは、五蔵の脈証と病証!
  • 五蔵の蔵象の条文は『素問』にたくさん載っている!

 

用語解説

王冰(おうひょう): 名は冰、啓玄子と号す。唯一の伝記的資料である『素問』に附された王冰の序文と、それに対する宋臣の注によると、王冰は中国盛唐期(712~765)の官僚で、太僕令に任ぜられ、八十歳あまりで没したという。また当時流行していた『素問』に先師張公家蔵の「秘本」を参照して校訂と注解を行うとともに、養生関係の諸篇を最初に移すなどの大幅な構成の変更によって道教風に一変させて、宝応元年(762)に序文を記した。『素問』を現在に伝えた功績のある一方、第六十六篇から七十四篇に至る所謂「運気七篇」を補入したとの説もあり、毀誉褒貶の評価が絶えない。なお王冰の他の著作は早くに佚亡し、現存する『素問六気玄珠密語』『元和紀用経』はいずれも偽作と考えられている。

朱丹溪(しゅたんけい):1281~1358。元代の医家。金元四大家の一人。名は震亨、字は彦修、丹溪はその号である。「陽は常に余りあり、陰は常に不足す」の立場から陰虚火動の解消、すなわち陰気(精気、腎)の保養(滋陰)と、相火(肝や腎が持つ陽気)の降下を主張した。伝記資料として、『丹溪心法』に附された宋濂「故丹溪先生朱公石表辞」、戴良「丹溪翁伝」がある。自著は代表作『格致余論』(1347)及び『局方発揮』『本草衍義補遺』の三書にすぎないが、門人や後世医家の編纂した医書に、戴思恭『金匱鈎玄』(1358。一名「平治会萃」)、楊楚玉『丹溪心法』、呉尚黙『丹溪手鏡』、王世仁『脈因証治』、高賓『丹溪治法心要』などがある。

滑寿(かつじゅ):1304?~1386。元末明初の医家。字は伯仁、攖寧生(えいねいせい)と号した(「攖寧」の語は『荘子』大宗師篇による)。『明史』に伝が見えるほか、李濂『医史』巻之八に朱右の手になる長文の伝と治験が見えるが、これは日本の上村二郎右衛門無刊記本や元文六年(1741)本『診家枢要』にも附載されている。代表的著作である『難経本義』(1361)、『十四経発揮』(1341)は日本の江戸期に繰り返し重刊され大きな影響を及ぼした。その他の著作として『診家枢要』(1359)、『読素問鈔』(『黄帝内経素問鈔』『素問鈔補正』)、『五臓方』(日本宝暦七年〔1757〕本)が伝存する。

張介賓(ちょうかいひん):第2回の用語解説参照

李中梓(りちゅうし):1588~1655。明末の医家。字は士材、念莪、凡尽居士と号した。生没年は李中梓の門人・郭佩蘭『本草匯』の記事に基づく。代表的著書である『内経知要』(1642)は『素問』『霊枢』の経文を摘録して八分類とし附注したもので、張介賓の『類経』の縮約版の趣がある。『医宗必読』(1637)は通論、脈法、本草、傷寒、雑証からなる医学全書である。また『診家正眼』(1642)は、先行する滑寿『診家枢要』、李時珍『瀕湖脈學』、呉崑『脈語』と並ぶ明代脈書の白眉である。

汪昂(おうこう):1615~1694?。明末清初の医家。号は訒庵。本草や方剤学に優れ、南宋の陳言や明の呉崑の医説を尊重した。代表的著作に後世方剤学の規範となった『医方集解』(1682)、『素問』『霊枢』を類別に分類して注解した『素問霊枢類纂約註』(1689)、常用される薬物の要旨を述べ、『本草綱目』などの不備を補った『本草備要』(1694)がある。

『素問』『霊枢』以降、隋の時代までの五蔵

 『素問』『霊枢』の後を承けて著された『難経』では、陰陽や寒熱など様々な問題が扱われているが、やはり医論や脈論の中心となっているのは、五蔵論である。しばしば指摘される『難経』の五行説とは、『難経』の著者が意図的に強調しようとしたものではなく、実は五蔵を論じることによって強いられた結果であると私は考えている。

 後漢の頃に成立したとされる最古の兪穴書『明堂』では、五蔵に関わりが深いものとして、『霊枢』本輸篇に基づく手足の五兪穴や、『霊枢』背腧篇をさらに展開したものと考えられる背部兪穴がある。腹部の募穴は『難経』六十七難に「募」一語として登場するが、兪穴や募穴と蔵府の関係を明らかにしたのは、『明堂』が最初である。
 後漢のあと、王叔和は『脈経』巻第三の諸篇において、『素問』『霊枢』などから蔵府条文を集約し、さらにそれに現在は佚亡した『四時経』を加えて五蔵五府の病証を整理した。これは最初の本格的な蔵府論の初めであった。

 やはり後漢のあとに出たとされる『甲乙経』は、巻之一で蔵府、巻之二で経脈、巻之三で兪穴、巻之四で脈法、巻之五で鍼法、巻之六以降に医論、病論と鍼灸の主治を載せていることから、蔵府論を基礎とする鍼灸書として構成されていることがわかる。
 『脈経』以降、本格的に蔵府論を展開したのは、孫思邈『備急千金要方』で、その巻第十一~巻第二十の各巻に、心主を除く十一蔵府を充て、それぞれの蔵象、脈証、病証について詳細に論を展開している。
 また同書の巻第二十九・五蔵六腑変化傍通訣第四では、五蔵に所属するカテゴリーを56条の一覧表にまとめ、続く『外台秘要方』巻第三十九・五蔵六腑変化流注出入傍通では、これに更に24条を加えた。

ポイント

  • 『難経』の五行説は五蔵を論じた結果の説!
  • 兪穴と蔵府の関係を最初に明らかにしたのは『明堂』!

用語解説

『難経』(なんぎょう):中国の後漢に成立したとされる医書。古くは「八十一難」「八十一問」などと呼ばれたが、唐代以降、『素問』『鍼経』『明堂』と並んで、「黄帝」の名を冠して「黄帝八十一難経」と呼ばれるとともに、『史記』に見える伝説上の名医・秦越人の著作に擬された。早く三国時代から注解の対象となり、唐代初期に楊玄操が再編注解して、現在の『難経』の祖型が確立した。唐宋までの古注は南宋以降に『王翰林集註黄帝八十一難経』(『難経集註』)にまとめられ、元明以降の新注では滑寿の『難経本義』が最も大きな影響を及ぼした。また宋代以降は、脈書『王叔和脈訣』と併せて注解刊行され、当時の脈学に影響を与えた。

王叔和(おうしゅっか):中国・三国・魏(一に西晋あるいは呉)の太医令。『医心方』巻第二十九、『太平御覧』巻七百二十二に引く高湛の『養生論』によれば、名は熙で、字である叔和をもって行われた。その伝は正史には見えず、前掲『太平御覧』や『甲乙経』の皇甫謐序所載の記事しか徴すべきものがない。諸家の医説、脈論を引いて『脈経』十巻を編纂したほか、『傷寒論』の原型である『張仲景方』十五巻を編纂したとされる。

『四時経』(しじけい):『脈経』巻第三に多数の引用が見える、現在は失われた古医書。「四時経」の引用は、おそらく『脈経』からの引用であろうが、『素問』玉機真蔵論の新校正注にも見える。森枳園は『脈経』から条文を採録して、『四時経攷注』一書を輯佚した。

『甲乙経』(こうおつきょう):12巻。中国の魏晋南北朝に、『素問』『霊枢』『明堂』の三書を再編した鍼灸書。古来、皇甫謐(215~282)の撰とされてきたが、近年、疑義が提出されている。宋以前には『素問』『鍼経』『難経』『明堂』と並ぶ書として、「黄帝」を冠して「黄帝甲乙経」などと呼ばれたが、元明以降は鍼灸書として扱われている。『素問』『霊枢』の校勘資料であるとともに、佚亡した古代の兪穴書『明堂』の復元資料としても重要である。

孫思邈(そんしばく): 581~682。その伝は『旧唐書』と『唐書』に載せられている。『老子』や『荘子』、あるいは百家の説に通じ、傍ら仏説を好んだとされる。朝廷からしばしば召されたが応じず、在野にあって医療や著作に努めた。代表的著作は『備急千金要方』と『千金翼方』であるが、『千金翼方』については若干の疑義がないわけではない。

『外台秘要方』(げだいひようほう):40巻。王燾の撰。中国盛唐期(712~765)の752年成立。『備急千金要方』『千金翼方』と並ぶ唐代の医学全書。各項の冒頭に『諸病源候論』を引いて病機、病因を述べ、次いで方書を引いて治療法を述べるという体例は、その後の医学全書に大きな影響を及ぼした。唐以前の医学文献からの引用で構成され、引用に際しては引用書名が明示されていることから、現在では失われたしまった医書の輯佚資料としても重要である。とりわけ宋改以前の『傷寒論』の古本が引用されていることから、森枳園はそれらを集めて『張仲景方十八巻』を復元している。なお本書については1981年に『東洋医学善本叢書』所収の宋版をもって唯一のテキストとする。従来流布してきた明版とその重刊本は原型を損なっており、使用すべきではない。

『千金翼方』(せんきんよくほう):『備急千金要方』『外台秘要方』と並ぶ唐代の医学全書で、『新修本草』の内容が見られることから、659年以降の著作とされる。189門に方論2900余条を収める。孫思邈が『備急千金要方』を補うために著作したとされてきたが、その構成や内容は『備急千金要方』とは大きく異なっているだけでなく、道家の説を引く例が多いことから、託名の可能性もある。

江戸期の医書にみる日本の五蔵研究

 日本では江戸後期、尾張浅井家が主宰する尾張医学館で、「五蔵六腑変化傍通訣」に龔廷賢滑寿馬蒔などの諸本から抜粋した「薬性歌括」「諸病主薬」「十四経穴分寸歌」を加えて四書とし、浅井正封の校正編集を経て、天保10年(1839年)に刊行している。幕末の考証医家・森枳園も『素問攷注』の生気通天論の注でこの表をとりあげ、「此の図に据らば則ち一目瞭然、生剋の理、得る可し」と高く評価している。

 また江戸の鍼灸の分野では、江戸初期から前期の鍼灸流派・意斎流がこの傍通訣を鍼灸術の根底に置いた。意斎流と関わりのある鍼灸書『鍼灸抜萃』『鍼灸要歌集』には「五臓の色体」という章名も見られる。
 わが国独自の言葉であるこの「色体」という言葉は、大正から昭和の初期に五蔵を重要視した沢田健がこの名称を踏襲したことから、昭和時代を通じて「色体表」として広く流布、定着した。ただ、現在の日本の鍼灸用語辞典などではその出自を問うことなく「五行色体表」「五行の配当表」と称するか、まったく取り上げない場合すらもある。

ポイント

  • 「色体」は五蔵を重要視した沢田健が江戸期のいずれかの古典のなかから踏襲した言葉!
  • 日本独自の「五行色体表」「五行の配当表」の言葉は近年の辞書では出典すら問題とされない!

用語解説

尾張浅井家(おわりあざいけ): 浅井家はもと京都にあったが、医系三代の浅井周伯(正純)の時、曲直瀨玄朔の門人・饗庭東庵の高弟である味岡三伯(1629~1698)の門人となり「浅井の四傑」として名を挙げた。周伯は『素問』『霊枢』に通じ,浅井家の内経学の祖ともなった。四代の東軒(正仲)の時、尾張藩に招かれて侍医となり、尾張浅井家の祖となった。五代の図南(政直)は『素問』『霊枢』と李朱医学に通じ、医家として盛名を極めた。その後、六代南溟(正路)、七代貞庵(正封)、八代紫山(正翼)、九代九皐(正贇)と続いて江戸後期の医学に存在感を示した。十代国幹(正典)は明治期の漢方存続運動を主導したが敗れ、そこで尾張浅井家は絶えた。

龔廷賢(きょうていけん):1522~1619。明代中期の医家。字は子才、雲林と号した。代々医学を業とする家に生まれ、父・龔信ととともに名医と評された。父の著書『古今医鑑』を補訂刊行(1576)したほか、代表的著作に『種杏仙方』(1581)、『万病回春』(1587)、『雲林神彀』(1591)、『魯府禁方』(1594)、『寿世保元』(1615)、『済世全書』(1616)、『普渡慈航』(1632)などがある。なかでも『万病回春』は日本江戸期の最初の百年間に20回ほども重刊され、広く流布した。刻舟子『万金一統鈔』(1641序、1684刊)、野村謙亨『万病回春発揮』(1693)、苗村丈伯『俗解龔方集』(1694)、あるいは岡本一抱『回春指南』(1688)、『万病回春脈法指南』(1730)、『万病回春病因指南』(1695)、堅田絨造『万病回春名物考』(1799)などは、龔廷賢の医学の影響の大きさをよくあらわしている。

馬蒔(ばじ):中国・明代後期の医家。字は仲化、玄台(一に元台)と号した。万暦年間(1673~1619)に太医院正文に任ぜられた。著書に『素問註証発微』(1586)、『霊枢註証発微』(1588)、『難経正義』(1580)、『脈訣正義』(1588)がある。『註証発微』両書は、宋代以降最初の『素問』『霊枢』に対する本格的注釈であり、特に『霊枢註証発微』は『霊枢』全篇への最初の本格的な注解として高く評価されている。

浅井正封(あざいまさよし):1770~1829。江戸後期の医家。尾張浅井家の第七代。名は正封、貞庵と号した。尾張藩藩医として医療に尽力するとともに、医学館を設立、『素問』『霊枢』『難経』『扁鵲倉公列伝』『傷寒論』『金匱要略』などを講じ、門人は三千人に及んだとされる。1827年以降、仁和寺秘蔵の古巻子本『黄帝内経太素』や『新修本草』を転写させた。著書に子孫が筆記・補足した『方彙口訣』(1865)、『金匱要略口訣』がある。

森枳園(もりきえん): 1807~1885。江戸後期の考証医家。名は立之(たつゆき)、字は立夫、枳園と号し、養真、養竹と称した。祖は御薗意斎の高弟・森宗純である。伊沢蘭軒門人の渋江抽斎の門下となり、安政元年(1854)に医学館講師に任ぜられ、『宋本素問』『医心方』の校刻に従事するとともに、医学館での講義を行った。主要な著書に『素問攷注』(1864)、『傷寒論攷注』(1868)、『本草経攷注』(1857)があるほか、渋江抽斎とともに善本解題書『経籍訪古志』(1856)を撰し、師である伊沢蘭軒の『蘭軒医談』(1856)や狩谷棭齋の『箋注倭名類聚抄』(1883)の刊行にも尽力した。

意斎流(いさいりゅう):織豊期から江戸初期に活躍した鍼家・御薗意斎(1557~1616)を祖とする鍼灸流派。その術を伝える書に森共之(1669~1746)著『意仲玄奥』(1696)がある。病証による選穴と灸法が主流であった古代・中世の鍼灸に対して、腹部による五蔵の診察に基づく施術という決定的な転換を行った。腹部への打鍼(うちばり)という手技でも知られる。夢分斎伝『鍼道秘訣集』(1685)、渡辺東伯『鍼法奇貨』(1680)、安井昌玄『鍼灸要歌集』(1695)など無分流の流れをくむ鍼灸書、あるいは『鍼灸抜萃』(1676)やその後継書である『鍼灸重宝記』(1718)などの啓蒙的鍼灸書も、早い段階で意斎流と分枝した可能性があるが、詳細は未詳。

沢田健(さわだけん): 1877~1938。大正、昭和時代初期の鍼灸師。民間療法、対症療法化していた日本近代の鍼灸に対して、五蔵や色体表を重視することを通じて、古典を土台とする全体治療「太極療法」を提唱し、柳谷素霊や経絡治療家の先駆的存在となった。鍼灸にまつわる奇矯かつ神秘的なその言説は、代田文誌による聞書集『鍼灸真髄』に詳しい。

唐の時代の医書が重視していたこと

 
 ここで唐代の古医書の再編注解における五蔵論について触れておけば、まず唐の初期に『難経』を再編注解した楊玄操は、全体を十三章に分類し、そのうちの五章の章名に「蔵府」を冠している。これは『難経』の五蔵論的性格を踏まえた命名ではあるが、各章名は総合的にみて、適切とはいえない。
 初唐期に楊上善が著した『黄帝内経太素』三十巻では、巻第五と巻第六が蔵府の巻となっている。冒頭の諸巻に養生論的内容が置かれていることを別にすれば、その構成は、『甲乙経』にやや類似している。

 また同著者の『黄帝内経明堂』十三巻は各巻に一経脈が充てられているが、各巻の冒頭に、おそらく元来の『明堂』にはなかったであろう蔵象の文章が置かれている。これは唐代の蔵府重視を反映したものと見られる。
 盛唐期に『素問』を再編注解した王冰の五蔵論重視については既に述べたとおりである。

 ちなみに、六朝の成立とも、また五代頃の著作ともいわれ、宋代から明代までの脈学に決定的な影響を及ぼした『王叔和脈訣』もまた、五蔵を中心とする脈書ということができよう。
 こうして、五蔵とその蔵象や病証、脈証は、唐代を通じて完備し、元明以降の五蔵論の展開を準備したのである。

ポイント

  • 五蔵とその蔵象や病証、脈証は、唐代を通じて完備した!

用語解説

『備急千金要方』(びきゅうせんきんようほう):略称「千金方」。30巻。孫思邈著。中国・初唐(600年代)成立。唐の始めまでに成立した医方書や鍼灸書を集大成した、唐代の代表的医学全書。232門に方論5300余首を採録している。本書には宋改をうけた南宋版(金沢文庫旧蔵本、日本嘉永二年(1849)江戸医学館覆刻本)と、宋改を経ていない『孫真人千金方』(陸心源旧蔵本)の二種があるので注意を要する。

楊玄操(ようげんそう):中国・初唐(600年代)の人。呂広注本『難経』を得て、再編注解し、現在の『難経』の祖型を確立させた。また『黄帝明堂経』を注解し、『宋史』芸文志その他に『素問釈音』『鍼経音』など音釈の書が著録されているが、全て佚亡している。『王翰林集註黄帝八十一難経』(『難経集註』)の序文及び注文中の「楊曰く」部分に佚文を見ることができる。『外台秘要方』巻第三十九に多数見える「楊操音義」や「甄権千金楊操同」の「楊操」も楊玄操への言及とみられる。

楊上善(ようじょうぜん):中国・初唐(600年代)の人で、太子文学の地位にあった。医書への注解として『黄帝内経太素』『黄帝内経明堂類成』があるほか、『旧唐書』経籍志や『唐書』芸文志には楊上善の手になる『老子』や『荘子』の注解書や思想書が著録されている。

『黄帝内経太素』(こうていだいけいたいそ):30巻。楊上善撰注。錢超塵の説によれば、初唐(600年代)後半、662~670年の間に成立。『素問』『霊枢』の経文を19類に分類して附注したものである。経文は唐宋の改変を受けている『素問』『霊枢』よりも古態を遺すことから、その注解も含めて、『素問』『霊枢』の一級の校勘資料、訓詁資料として珍重される。中国では宋元の間に佚亡したが、日本江戸後期に京都の仁和寺で発見され、現在、仁和寺に23巻、武田科学振興財団杏雨書屋には仁和寺からの流出分2巻、計25巻が伝存する。

『黄帝内経明堂』(こうていだいけいめいどう):13巻。楊上善撰注。一名「黄帝内経明堂類成」。中国・唐の前期(600年代)頃に成立。中国古代の兪穴書『明堂経』、またはその唐代の一伝本『黄帝明堂経』に対する注解書。大半は失われ、日本の仁和寺と尊経閣文庫に第一巻のみ伝存する。十二経脈それぞれに一巻をあて、最終巻に奇経八脈を加えて十三巻とし、各経脈に関係する蔵象と所属兪穴について述べている。唐の752年に成立した『外台秘要方』の巻第三十九の主治条文と同様、全て兪穴を経脈に配当し、かつ兪穴ごとに部位や主治、鍼灸法を集約しようとする志向により成立した、唐代の代表的兪穴書である。

『王叔和脈訣』(おうしゅっかみゃっけつ):歌訣形式で書かれた脈書。編者とされる高陽生については六朝の人とする陳言の説(『三因方』)と、五代の人とする王世相の説(『瀕湖脈学』所引)がある。北宋以降、繰り返し注解されるとともに、『難経』と併せ刊行されて、明代までの脈学に大きな影響をあたえた。他方、『脈経』との内容の相違や言辞の鄙俗などの点からの批判も絶えない。

アルコール依存症への鍼 韓国の最新基礎研究

精力的な発表を続ける研究チーム

 本連載第1回でも述べたが、現在、世界で実施されている鍼灸研究のトレンドは臨床試験にとどまらず、そのメカニズムに迫ることである。例えば昨年(2019年)、最も強いインパクトを与えた鍼灸論文の1つは、SCIENCE ADVANCES誌に掲載された「Acupuncture attenuates alcohol dependence through activation of endorphinergic input to the nucleus accumbens from the arcuate nucleus(鍼治療は弓状核から側坐核へのエンドルフィン作動性入力の活性化を介してアルコール依存を弱める) https://advances.sciencemag.org/content/5/9/eaax1342 」だろう1)。今回はこの論文に焦点を当てる。

 SCIENCE ADVANCES誌は、かの有名なScience誌の姉妹誌で、生命科学、物理学、環境科学、数学、工学、情報科学、社会科学において、質の高い研究成果を掲載している。Science Advances誌はオンラインで展開され、オープンアクセス方式で、一般読者に無料で研究論文が提供されているため、誰でも読むことができる。

 今回取り上げる研究は、大邱韓医大学校のChangらによって行われた。大邱韓医大学校の研究チームはこれまでにも、ネズミを使った鍼の基礎研究において数々のインパクトの高い論文を提供し続けている。筆者が「医道の日本」誌で連載していた「鍼灸ワールドコラム」でも、同チームの論文はたびたび紹介している。

 例えば、同誌2014年2月(第33回)では、「海外で研究が進む薬物中毒への鍼刺激効果」と題し、コカイン依存に対する鍼治療効果機序に迫る論文を紹介した2)3)。そのなかでは、手の少陰心経の神門(HT7)への鍼刺激が、触・圧刺激の受容器であるマイスネル小体・パチニ小体を介して比較的太い神経であるA群求心性線維から脊髄へと情報が伝わり、脳内におけるドーパミン代謝に影響を及ぼすことが明らかにされた。

 また、同誌2018年1月(第80回)では、「経穴の解明を試みた韓国の最新研究『神経性スポット』」と題して同チームの論文に着目した。高血圧モデルラットと大腸炎モデルラットでは、出現する神経性の炎症点(神経性スポット)に違いがあり、その点は経穴と一致し、その点に鍼治療を行うと症状が改善される、という内容である。疾患ごとに反応の出る経穴が違うこと、また鍼治療に用いる経穴が異なることの根拠が示されていた4)5)。

 なお、今回のChangらの論文では、アルコール使用障害:Alcohol use disorder 〈(AUD)〉という言葉が用いられているが、本稿では一般的な「アルコール依存症」を使用する。

ラットでの実験――飲酒癖を断ち切れるか

 アルコール依存症は、禁酒期間を設けても、再発を繰り返すことが特徴的で、世界的にみても深刻な医学的問題の1つといえる。アルコール依存症から脱するには、アルコールを渇望する意識の再発を防ぐことがポイントとなる。

 これまでの研究により、アルコール依存症ラットにおいて、慢性的にアルコールを摂取させると、視床下部のβ-エンドルフィンニューロンの活性が低下することが分かっている6)。そして、この視床下部のβ-エンドルフィン活性の低下が、アルコール依存による禁断症状に伴う不快感や抑うつ状態の原因となる可能性がいわれており、継続的なアルコール摂取につながると考えられている。
 さらに側坐核のβ-エンドルフィンは、アルコール依存症の発症と密に関連するストレスへの反応を調整する、とされている。

 また、慢性的なアルコール摂取から離脱させると、側坐核の細胞外ドーパミン量の低下が起こる。そしてそれは、アルコール摂取からの離脱に関連した否定的な感情と身体的離脱兆候の根本原因と考えられ、飲酒行動の再発を引き起こすとされている。

 アルコール摂取がβ-エンドルフィンの活性低下を招き、うつやストレスを発症し、またアルコール摂取へとつながる。逆にいえば、β-エンドルフィンはアルコール依存性の緩和に重要な役割を果たすことが期待できるのである。

飲んだあとの代謝には影響なし

 ここで鍼治療の作用機序に視点を移してみよう。
 鍼治療は、視床下部の弓状核内のβ-エンドルフィン作動性線維およびエンケファリン作動性線維を刺激し、また、鍼治療によって賦活化されるエンドルフィン作動性ニューロンは、側坐核のγ-アミノ酪酸(GABA)ニューロンに発現するオピオイド受容体を活性化することが分かっている7)。
 先述した薬物乱用における鍼治療機序の論文の中にもあったように、HT7への鍼治療によって、側坐核のエンドルフィン作動性入力の活性化を通じて中脳辺縁系ドーパミン放出とアルコール摂取量を調節し、ドーパミン量を回復させることで行動の変容を促すのではないかとChangらは考えた。

 加えて、β-エンドルフィンが側坐核のドーパミン放出を増強するので、鍼治療によって視床下部のエンドルフィン神経線維が刺激され、慢性的なアルコール摂取からの離脱期間中に減少したβ-エンドルフィン量を正常化すると仮定したのである。

 そこでChangらは、
 1. アルコール依存性ラットにおけるアルコール離脱期間の身体的および心理的兆候に対する鍼治療の効果
 2. 鍼治療によるアルコール離脱効果における側坐核の内因性オピオイド系の役割
について評価した。

 アルコールを含まない食事を与えた群(対照群)、アルコールを含んだ食事を与える群(エタノール群)、エタノール群にHT7へ鍼治療を行った群(エタノール+HT7群)の3群の比較を実施している。

 まず、16日間アルコール有り無しの食事を与える。その後アルコールから2時間離脱させ、すぐに鍼治療を行う。鍼治療は機械式鍼治療器具(mechanical acupuncture instrument : MAI)を用い3)、85Hzで20秒間、両側HT7に刺激を加えた。
 対照群、エタノール群、エタノール+ HT7群の平均血中エタノール濃度(BEC)は、それぞれ5.7±1.3 mg / dl、198.9±9.0 mg / dl、180.7±9.1 mg / dlであり、鍼治療によってアルコールの代謝には影響を及ぼさないことが分かった。
 つまり、飲んだ後に鍼治療を受けても酒は抜けない、ということになる。

陽渓ではなく神門、健康ではなく病的状態

 次に、Changらは振戦の評価を行っている(図1)。自動振戦活動監視システムを用いて、離脱時間2時間後のラットを15分間観察すると、エタノール群では10〜22 Hzの振戦が有意に増加していた。しかしエタノール+HT7群では、コントロール群と変わらない値を示した。
 この振戦の減少は、手の陽明大腸経の陽渓(LI5)への刺激では起こらなかった。つまり、心経の経穴であるHT7特異的な反応であることが分かる。そして、このHT7への鍼刺激の反応は、オピオイド拮抗薬であるナロキソンの投与で消失した。このことから、HT7への刺激は、オピオイドを介してアルコール離脱による振戦を抑制したことになる。

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 このことを証明するために、Changらは側坐核のβ-エンドルフィン量を測定した。アルコールを摂取させた群(エタノール群、エタノール+HT7群)では対照群と比較してβ-エンドルフィン量が有意に減少するのだが、エタノール+HT7群では鍼刺激後にβ-エンドルフィン量が2倍以上に上昇する。この反応は、LI5を刺激しても起こらない。加えて、対照群のラットにHT7鍼刺激を行ってもβ-エンドルフィン量は増加しない。つまり、病的な状態で適切な部位に鍼刺激を実施しないと振戦の抑制は生じないのである。

 では、視床下部ではどのような変化が起きているのだろうか。HT7への鍼刺激を受けたラットでは、アルコール有り無しの食事にかかわらず、弓状核内のc-Fos陽性細胞の数に有意な増加を示した。つまり、HT7への鍼治療によって側坐核に投射する弓状核ニューロンの活性化が起きているのである。この反応は、電気的にも測定され、HT7への鍼治療によって放電率が有意に上昇していた。

ドーパミン放出正常化での好影響

 次に心理的な評価である。
これには高架式十字迷路装置が使用された。高架式十字迷路とは、(壁のない)オープンアームと(壁のある)クローズドアームによる十字型の迷路である。ラットは、不安が高いとクローズドアームを好むので、オープンアームにいる時間とクローズドアームにいる時間の量を比較することで、不安の評価に用いることができる。
 エタノール群では、対照群の動物と比較して、オープンアームで過ごした時間の割合が有意に短くなった。対照群では30~40%の時間オープンアームで過ごすのだが、エタノール群では1%にも満たなくなる。しかし、エタノール+HT7群では25%程度に回復する。このような現象は、側坐核内に直接β-エンドルフィンを注入しても起こる。
 つまり、HT7に鍼をすると不安が減少し、そしてこの反応はβ-エンドルフィンによるものと似ている、ということになる。

 Changらはオペラント条件付けの検査も実施している(図2)。オペラント条件付けとは、報酬や嫌悪刺激に適応して、自発的にある行動を行うように学習する、行動主義心理学の基本的な理論である。
 2本のレバーのうち、一方のレバーを引くとアルコールが出て、もう一方のレバーを引くと何も出てこない装置を用いる。すると、エタノール群では、アクティブ(アルコールが出る)なレバーを引く回数が有意に増加する。HT7に鍼刺激を行うと、アルコール摂取の有無にかかわらずアクティブなレバーを引く回数は減少した。β-エンドルフィンを直接側坐核に注入した場合も、アクティブなレバーを引く回数は、HT7への鍼治療と同様の結果を示した。
 つまり、HT7への鍼治療はβ-エンドルフィンと同じように、飲酒の再発予防につながる可能性がある。

 これらの結果から、HT7への鍼治療によって側坐核でのドーパミン放出を正常化させることにより、アルコール依存性の症状緩和に機能的な役割を果たす可能性が示唆された。慢性的なアルコール摂取から離脱することは、中脳辺縁系におけるドーパミンの低下を引き起こし、これがアルコール禁断中の負の情動や離脱症状に対する神経化学的メカニズムだと考えられている。
 この否定的な情動は、アルコール依存症ラットにおける継続的なアルコール探索行動を動機付ける可能性があり、HT7への鍼治療によって生じたアルコール自己投与(アクティブレバーを引く回数)の減少は、ドーパミンの枯渇を抑制した可能性が考えられる。

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通電ではない鍼の刺激で変化

 いかがであっただろうか。
 慢性的なアルコール摂取による依存症では、離脱中の振戦、不安様行動、アルコールの自己投与の増加と側坐核での有意なβ-エンドルフィンの減少を示した。β-エンドルフィンが側坐核のドーパミン量をどのように調節するかはまだ解明されていないが、モルヒネは側坐核のGABAニューロンを阻害し、腹側被蓋野のドーパミンニューロンを阻害しないことが分かっている。

 したがって、β-エンドルフィンは、オピオイド受容体を介して腹側被害野のドーパミンニューロンに投射する側坐核のGABAニューロンに対して、その阻害作用を発揮すると推測される。つまり、アルコールからの離脱中に、側坐核のβ-エンドルフィン、内因性オピオイドの量が低いと、側坐核のGABAニューロンが抑制されなくなり、ドーパミンニューロン活動が低下する。その結果として、不快感や不安な症状が生じる。
 HT7への鍼治療が、アルコール依存性ラットの側坐核で減少したβ-エンドルフィン量を回復することにより、振戦、不安様行動、飲酒行動を抑制したことから、これらの経路に何らかの影響を及ぼしたと考えられるのである。

 鍼治療によってオピオイドが放出されることは全鍼灸師が知っている。それは、鍼麻酔の機序として勉強する。しかし、Changらの結果から、抗不安作用にも同じような機序が関わっていることになる。
 これまでの鍼鎮痛に関わる鍼灸オピオイド説では、数分~数十分の鍼通電刺激が主なものであった。今回のChangらの研究では、鍼通電刺激を用いず(85Hzというのは、その頻度で鍼を動かしているという意味であり、2本の鍼の間に電気を流すわけではない)、それもわずか20秒の刺激で十分な量のオピオイドが放出される可能性が示唆された。また、薬物中毒に対する鍼治療効果を調べた時と同様の結果を示したことから、鍼刺激はC線維だけではなく、太いA線維にも入力があることが分かった点は興味深い。

酒好きへの現実的なアドバイス

 昔から「酒は百薬の長」といわれている。また、これまでの数々の研究で少量ならば飲まないよりは飲んだほうが健康によいとされてきた。
 しかし、2018年、この説は覆ることになる。英ケンブリッジ大学によって行われた研究では、健康の損失を最小限に抑えるお酒の量はゼロであると結論付けている8)。そのなかでは、消費量が増えれば増えるほど、ありとあらゆる原因の死亡率が上がるとも述べている。

 お酒は飲まないことに越したことはないということになるのだが、現実は多くの人が飲酒を楽しんでいる。いくら鍼治療が効果的であるといえども、飲んだ後には鍼治療という前に、ほどほどで留めておくよう指導することが大事なのはいうまでもない。

 
【参考文献】
1)Chang S, Kim DH et al. Acupuncture attenuates alcohol dependence through activation of endorphinergic input to the nucleus accumbens from the arcuate nucleus. Sci Adv. 2019; 5(9): eaax1342. doi: 10.1126/sciadv.aax1342.
2)建部陽嗣, 樋川正仁. 鍼灸ワールドコラム第33回. 海外で研究が進む薬物中毒への鍼刺激効果. 医道の日本 2014; 73(2): 166-8.
3)Kim SA, Lee BH et al. Peripheral afferent mechanisms underlying acupuncture inhibition of cocaine behavioral effects in rats. PLoS One. 2013; 8(11): e81018.
4)建部陽嗣, 樋川正仁. 鍼灸ワールドコラム第80回. 経穴の解明を試みた韓国の最新研究「神経性スポット」とは. 医道の日本 2018; 77(1): 226-8.
5)Kim DH, Ryu Y et al. Acupuncture points can be identified as cutaneous neurogenic inflammatory spots. Sci Rep. 2017 ;7(1): 15214.
6)Scanlon MN, Lazar-Wesley E et al. Proopiomelanocortin messenger RNA is decreased in the mediobasal hypothalamus of rats made dependent on ethanol. Alcohol Clin Exp Res. 1992; 16(6): 1147-51.
7)Mansour A, Khachaturian H et al. Anatomy of CNS opioid receptors. Trends Neurosci. 1988; 11(7): 308-14.
8)Wood AM, Kaptoge S et al. Risk thresholds for alcohol consumption: combined analysis of individual-participant data for 599 912 current drinkers in 83 prospective studies. Lancet. 2018; 391(10129): 1513-23.

病証学は人体の内外を解析する学問

東洋医学には解剖学的知見とは異なる基礎がある

 『史記』扁鵲倉公列伝に見える「病の応は大表に見(あらわ)る」という一節は、中国医学の本質を突いたものとして有名である。しかし『史記』では、その少し前に扁鵲の事跡として「病を視て、尽くに五蔵の癥結(ちょうけつ)を見る」との逸話が置かれている。
 これは、実体臓器に生じた何かの病変を、体表の観察も問診も脈診もなく、透視で察知し得た秦越人扁鵲の常ならざる能力を称揚する一節である。しかし、実際は病の原因である体内を直接知ることの不可能性が象徴されていると読むべきである。中国古代医学では、病を生じさせる根源である〈内〉を実体として捉えることはできない。

 なるほど、人は『霊枢』の腸胃篇、平人絶穀篇、『難経』四十二難に見られる「腸胃」や「蔵府」の容量や形状の詳細な記述を挙げ、『霊枢』経水篇の「其の死するや解剖して之れを視る可し」云々の一節を引き、『漢書』王莽伝の末に見える反逆者・王孫慶の剖検(16)を挙げ、北宋における反逆人・欧希範ら五十六人の処刑の際に描かれた蔵府図『欧希範五蔵図』(1045)とその補訂版である楊介『存真環中図』(1113)に言及して、中国古代医学における解剖学の意義と重要性を強調するかもしれない。しかし、東アジアの古今の医書を通覧すれば、東洋医学の直接の基礎となったものが、そうした解剖学的知見でなかったことは自明である。

ポイント

  • 病を生じさせる根源の〈内〉は問診や脈診を介して捉えられる!
  • 東アジアの古今の医書は解剖学を重視していない!

用語解説

『史記』(しき):中国・前漢の歴史家・司馬遷の撰。前91年頃に成立。本紀、表、書、世家、列伝から構成される紀伝体の歴史書で、伝説上の五帝から前漢の武帝に至る歴史が描かれている。正史二十四史の第一に位置する。列伝の第四十五にあたる扁鵲倉公列伝は、中国古代医家の伝記というに止まらず、中国古代医学の体系を考える上における重要資料で、室町末期の禅僧・月舟寿桂(幻雲)、江戸期の医家・浅井図南や多紀元簡らによる詳細な注解がある。

扁鵲(へんじゃく):秦漢以前の様々な古典に事跡が見える中国古代の名医に与えられた象徴的呼称。『史記』扁鵲倉公列伝の秦越人が最も有名である。なお中国古代には扁鵲を祖と仰ぐ学統があったようで、『漢書』芸文志著録の『扁鵲内経』『扁鵲外経』、『脈経』巻第五の扁鵲の名を冠した諸篇、唐代の医学全書に多数見られる「扁鵲曰」する引用などは、「扁鵲医籍」と総称されることもある。また近年には、『素問』『霊枢』や近年中国から出土した医書にも、関連する内容のあることが指摘されている。

倉公(そうこう):中国前漢初期の実在の医家。『史記』扁鵲倉公列伝の後半にその伝が見える。また伝記に附された診籍(診療記録)二十五例は難解であるが、中国古代医学の貴重な資料として、また『素問』『霊枢』『難経』などの内容を理解するための手がかりとして注目されている。

秦越人(しんえつじん):『史記』扁鵲倉公列伝の前半にその事跡が見られる中国古代の医家。師匠・長桑君から術を受け継ぎ,諸国を偏歴して医療を行い、「扁鵲」と称せられたが、その事跡には伝説の色彩が濃い。唐代以降、『難経』の著者に擬せられた。

『漢書』(かんじょ):中国・後漢の班固の撰。妹の班昭と門人の馬続(馬融の兄)が補修して、82年頃成立。帝紀、表、志、列伝から構成される紀伝体の歴史書で、前漢の歴史が描かれている。『史記』に続く正史二十四史の第二の書である。中国の代表的歴史書として『史記』とともに「史漢」と併称された。

王莽(おうもう): 前45~後23。前漢の皇帝の位を簒奪し、8年に王朝・新を樹立した。儒教の経典『周礼』に基づく復古的な理想国家を目指したが、赤眉の乱などにより王朝は崩壊、殺害された。その伝記は『漢書』巻九十九の王莽伝に詳しい。

王孫慶(おうそんけい):王莽の討伐を目的とした翟義の乱(7)の一味の一人。捕らえられ、新の天鳳三年(16)に王莽の主導により生体解剖され、五蔵を量り、竹のへらで経脈をたどったと、『漢書』王莽伝に見える。正史における、最初で唯一の医学目的としての解剖の記録として注目される。

欧希範(おうきはん):北宋の慶暦四年(1044)に反乱を起こしたが、五年(1045)に捕らえられて、他の反逆人数十人とともに腹を割かれて処刑された。処刑に際しては、王莽以来絶えていた医学目的の解剖が行われ、派遣された画工による詳細な観察に基づく蔵府図『欧希範五蔵図』が作られた。

『欧希範五蔵図』(おうきはんごぞうず):北宋の慶暦五年(1045)に欧希範ら反逆者に対して行われた医学目的の解剖によって作られた蔵府図。南宋頃までは伝存したが、その後佚亡した。わが国鎌倉期の梶原性全『頓医抄』(1302)の巻四十四・五蔵六府形の第一図、中国明末の亡名氏著『循経考穴編』所載の「欧希範五臓図」に、僅かにその蔵府図の一端をうかがうことができる。

楊介(ようかい):北宋末の崇寧年間(1102~1106)に江蘇泗州で賊の処刑が行われた際、先行する『欧希範五蔵図』を補正する目的で、画工とともに派遣されて医学目的の解剖に立ち会った医家。楊介は、この時作成した蔵府図を、煙蘿子の蔵府図によって校訂し、これに十二経脈図を加えて、政和三年(1113)に新しい蔵府図『存真環中図』を完成させた。

『存真環中図』(そんしんかんちゅうず):北宋末の医家・楊介の撰した蔵府経脈図。「存真」は五蔵六府図、「環中」は十二経脈図を意味する。中国では明末頃まで伝存したが、その後佚亡した。わが国鎌倉期の梶原性全『頓医抄』(1302)の巻四十四に本書の全体が転載されていると推定されるほか、明後期から末期に成った亡名氏『循経考穴編』や胡文煥『新刻華佗内照図』、施沛『蔵府指掌図書』、王文潔『脈訣宗統』などにもその図が伝えられている。

人体は〈気〉によって説明することもできる

 解剖学的知見は、漢代の医学に対して何ら本質的な影響を与えなかった。また、北宋以降の医学は、解剖によって何かを導き出そうとする方向には向かわなかった。古代中国の医家は、解剖に熱心でなかっただけでなく、その必要すら感じていないように見える。それはなぜか。

 臓器、血管、血液などは現実の物であるが、それについての認識が進んでも、それだけで身体の生理や病候の理由を完全に説明することは、現代医学においてすら、なお困難である。まして古代中国医学においては当然である。近世までの医学のレベルにおいては、解剖学的知見のみに依拠していては、医学を形成することも、発展させることもできなかった。

 解剖学に依拠できない中国古代の医家が行ったことは、体内にある現実の臓器や血管、血液といった実体から出発しつつ、その解剖の所見を、不可視の〈気〉としての〈五蔵〉や〈経脈〉に転化し、それを陰陽論と五行説でカテゴリー化することであった。

 もちろん、〈気〉としての〈五臓〉や〈経脈〉には、出発点にあった現実の〈物〉のイメージがどこまでもつきまとっていた。したがって、〈五蔵〉は常に現実の五種の臓器と混同され、〈脈(経脈)〉はその字義からして血管のことと判断された。そうした正しいが誤った理解により、概念の混乱は何時の時代においても不可避であった。

 明の張介賓『類経』蔵象類・蔵象の中で、こうした身体観を「蔵は内に居り、形は外に見る」と概括している。〈内にある蔵〉とは(蔵気)のことであるが、それだけでなく、経脈や気血、津液など、あらゆる体内の〈気〉を指すと見てよい。

 一方、〈外に現れる形〉とは身体各部とそこに生じる生理的・病理的現象、症状や脈状のことである。〈外形〉と〈内気〉は、陰陽的一体関係にあって、互いに影響を及ぼし、〈外形〉のすべては、不可視の〈内気〉によって実現するとされるも、その〈内気〉は〈外形〉を介してしか把握されない(病態像が構築されない)という構造となっている。

 しかし、この構造こそが、中国医学の診察における重層性と柔軟性を保証したのである。
 人体上に起こるあらゆる病理的現象の解析学である病證学とは、こうした考えを基礎とするものである。

ポイント

  • 中国古代の医家は解剖学に依拠できなかった!
  • 人体上に起こるあらゆる病理的現象の解析学が病證学!

用語解説

張介賓(ちょうかいひん):1563~1640。会稽(浙江省紹興)の人。字は景岳。明代後期の著名な医家。医経研究ならびに明代の臨床医学に対して大きな貢献を行い、その影響は現在に及んでいる。主要な著作に『類経』『景岳全書』がある。

『類経』(るいきょう):明の張介賓の手になる『素問』『霊枢』の再編注解書。1624年成立。『類経図翼』と『類経附翼』を附刊。中国のみならず、日本近世の『素問』『霊枢』研究にも決定的な影響を及ぼした。近代の復興古典鍼灸である経絡治療成立時、経絡治療家は張介賓の『類経』の注によって『素問』『霊枢』を読んだ。

経絡に流れているのはイオン?

台湾のHungらによる最新調査

 鍼灸治療は、腰痛や肩こりなど、筋骨格系の愁訴に対する治療手段として広く知られている。さらに、吐き気、便通異常、血圧異常、睡眠障害、精神障害など、筋骨格系以外の症状に対しても使用される。その治療には、経絡の理論が用いられる。しかし、この「経絡」が何かは、はっきりしない。このため、鍼灸治療を怪しく思う人もいる。

 「経絡とは何か」というテーマに対して、これまで多くの研究者が挑戦してきた。

 経絡の性質については、さまざまな種類の仮説が存在し、理論的に大きく4つに分けることができる。神経伝導説1)、体液循環説2)、エネルギー説3)、そしてファシア(筋膜)および結合組織説4)である。
 これらの仮説は経絡の本質を個々の合理的な観点から解釈しようと試みている。しかし、どの仮説が最もらしいのかは、議論の真っ最中といっていいだろう。

 そんななか、2020年7月、経絡の本質に迫る論文がまた一つ発表された。
 台湾のHungらによる「Meridian study on the response current affected by electrical pulse and acupuncture(電気パルスと鍼刺激によって作用する応答電流に関する経絡研究)」5)である。
 応答電流とは、急な電圧の変化が生じた際に、それまでの電圧や電流が一定の状態(定常状態)であったものに変化が生まれ、十分に時間が経過した後に別の定常状態に到達するまでの間、時間的に変化する電圧や電流の振る舞いのことである。

 この論文は、Nanoscale Research Lettersという、ナノメートルスケールでの科学的技術を発表するための雑誌に掲載された。このような雑誌に鍼灸に関わる論文が掲載されることは大変珍しい。

30人の健常者に対する鍼通電刺激の実験

 Hungらの実験内容は次のとおりである。
 20~30歳の15人の男性と15人の女性、計30人の健常ボランティアに鍼通電を実施。刺激部位は合谷―曲池であり、通電および応答電流の計測に半導体デバイス・アナライザを用いている。この装置を用いれば、電流-電圧測定、静電容量測定など複数の測定・解析機能が統合されており、高精度な測定と解析を1台ですばやく簡単に行うことができる。Hungらが用いた装置では、0.1 fA~1 A/0.5 µV~200 Vのレンジで電気信号を与え、パルス測定の電流/電圧(IV)測定などが可能となる。

 合谷―曲池の鍼通電は、上腕部、前腕部(合谷と曲池の間)の2カ所で応答電流を測定した。

 上腕部で記録される波形は、手足から体躯に向かう波形なので近位通電波、前腕部で記録される波形は、体躯から手足方向に向かう波形なので遠位通電波とする。

 鍼通電の電流には2種の波形が用いられた。Pulse波は0〜0.5 Vの、AC波は0.5〜-0.5 Vの間を行き来する連続的な矩形波である(図1)。鍼通電療法で用いられる通電器の多くが三角波ではなく矩形波を用いていることから、この波形が選ばれた。

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 また、周波数による差をみるために、4つの周波数(2、4、6、8 Hz)の刺激が用いられ、すべてのデータは3回測定を繰り返した平均値を用いた。
 鍼通電刺激を行った際の応答電流は、Pulse波の場合、-0.5 Vの電流は10μAで、0 Vでは約8μAの逆電流が測定された。
 AC波では、-0.5 Vの時に13μAの電流が、0.5 Vでは26μAの逆電流が測定された。つまり、どちらの刺激でも通常は起こらない向きに電流が流れ、AC波のほうがその動きは大きかったといえる。
 この逆電流を解析するために、初期電流値をI1、逆電流をI2と定義した(図2)。
 Pulse波のI2の値をI1で割ってみると、その比は1に近い。これは、負の電圧では負の電流であり、電圧を加えなければ同じ量で逆戻りすることを意味する。

 一方で、AC波のI2/I1比は2に近い値を示した。これは負の電圧では順方向電流を示すが、逆方向の電圧が加わると、電流は逆流するだけでなく応答電流とともに増幅されることを示している。また、Pulse波では、周波数を増やしていくと、I2 / I1比は小さくなっていく。これはAC波でも同様の結果が認められ、周波数が高くなると、消費される電流を補償する補償電流の発生に十分な時間がなくなるためと考えられる。

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鍼通電によって起こる変化

 鍼通電を加えた際にみられる応答電流の波形は、始めに急激に増加し、ピークの最大値を超えた後、徐々に減少して飽和に至る(図2)。これは、等温過渡イオン電流(isothermal transient ionic current:ITIC)のメカニズムに似ていることが分かった。ITICでは、陰イオンと陽イオンは電場によって両側に移動し、電流が増加する。イオンが両側に蓄積してくると、空間電荷(空間に分布している、電気を帯びた微粒子または電子)からの障壁によって電流は徐々に減少する。

 今回の結果とこのITIC理論を組み合わせてみると、Pulse波では、最初に電圧が加わった-0.5 Vの時、イオンは電場によって移動し両極に蓄積される。ただし、電圧がかかっていない0Vでは、イオン濃度の異なる拡散電流(荷電粒子の濃度の不均一性のために起こる電荷の移動による電流)による異常逆電流を計測した。
 AC波では、-0.5 Vの電圧が加わるとまず電流が生じ、電圧が0.5から-0.5 Vに変化すると、ドリフト電流(電場が与えられたことで生じる電流または電荷を帯びた物質の移動)と拡散電流が逆の電場状態で形成され、最初の2倍の電流が流れたと考えられる。

 Hungらは、合谷―曲池の大腸経だけでなく、他の経絡でも同様の実験を行っている。I2 / I1の比率はすべて同じ結果となり、波形には逆の応答電流があり、その比率はPulse波では1に近く、AC波では約2となった。

イオンの受動拡散を誘発?

 いかがであっただろうか。Hungらの研究結果は、体液循環理論に似ているといえる。経絡の上のツボへ鍼治療をするということは、イオンの受動拡散を誘発するのかもしれない。
 ただ、人間の組織は水分、無機塩、帯電したコロイドで構成される複雑な電解質の導電体である。鍼通電を施すと、イオンは方向性を持って移動し、細胞膜の分極を解消する。その結果として、イオンの濃度と分布はかなりの多様性を示し、人間の組織機能に影響を与えると考えられる。
 ファシアを含めた結合組織が、液体で満たされた「間質」という臓器としてとらえるべきとする過去の報告にもつながるのかもしれない6)。
 鍼が起こす刺激とは逆に応答電流が生じる。そしてそれは、イオンの移動によってドリフト電流+拡散電流が生じる結果といえる。つまりは、経絡にはイオンが流れているという結果である。

 今回のHungらの研究は、健常者で実施されている。もし、特定の疾患によって経絡の信号伝達が変わり、鍼刺激によってその流れが変化することが分かれば、新たな鍼治療機序として確固たる理論の一つになるだろう。

 
【参考文献】
1)Fan Y, Kim DH et al. Neuropeptides SP and CGRP Underlie the Electrical Properties of Acupoints. Front Neurosci. 2018; 12: 907.
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「病證」「病証」「病症」の違い

 1944年春、本間祥白は、近代以降最初の病証についての一書を刊行し、それを『鍼灸病証学』と命名した。書名に「鍼灸」の二字が冠されているのは、この書が、1941年に開始されたわが国の伝統鍼灸の再興、経絡治療創成の流れの中で編纂されたものだからである。

 しかし、本間祥白の打ち立てた病証学は、門人である井上雅文に継承されただけで、1970年代以降、わが国における病態解析の学は、中医弁証学に取って代わられた。

 病証学の構築には、臨床に基づく問題意識と東アジアの古医書に通じている必要があるが、ここ数十年間、わが国の臨床鍼灸師は、臨床体系の検証と東アジアの古医書の基礎研究を軽視してきた。1990年代の日本伝統鍼灸学会を舞台とした病証学研究の挫折、ならびに現在の病証学の衰退は、その結果である。

 このたび新たな病証学の構築にあたり、本間・井上の学統に連なる私は、彼ら二人の業績の継承と発展の意味をこめて、あえて本連載に「鍼灸病証学」の名称を踏襲することとした。

「證」は「あかし」「しるし」の意味

 病証という言葉の表記には、「病證」「病証」「病症」の三種があるが、字義の上からは「病證」とすることが正しい。

 管見によれば、「病證」という言葉の初出は『傷寒論』と思われる。その一例が傷寒例第三の「もし一剤を服して、病證猶在り、故にまさに復た本湯を作りて之れを服すべし」である。

 「病證」の用例はまた、『脈経』巻第六の各篇名「肝足厥陰経病證第一」や「胃足陽明経病證第六」などにも見ることができる。

 「證」は、『説文』に「告ぐるなり」、『玉篇』に「験(あかす)なり」とあって、「證験」、すなわち「あかし」「しるし」のことである。和語で「證」という文字を「明かし」と読むのは、疑いを正して證明する、すなわち證明の「證」と解するからであろう。

 また和語の「しるし」には、「験」以外に「徵」の文字をあてることもある。それは、「證」「徵」がともに韻母が蒸韻で声義が相通じる文字であることによる。

証は「いさめる」「ただす」の意味

 ところで、「證」という文字は、古くから「証」と書かれることが多い。ただ「証」は『説文』に「諫(いさ)むるなり」、また同書の「諫」条には「証(ただ)すなり」とあって、元来は諫言の義であるから、「證」の意味を別字「証」であらわすことは、誤用である。

 しかし、この誤用は、『呂氏春秋』巻第五・誣徒篇の高誘の注「證は諫なり」にまで遡る古いもので、古くから定着している。段玉裁が『説文』の注で「今俗、証を以て證験の字と為す」と述べるゆえんである。

 「症」は「證」の俗字であるが、中国医書においてこの文字が使われるようになるのは清代以降で、辞典への収録も『辞源』(1915)からと見られる。ちなみに、近年、中国で古い医書を排印する際、「癥」(ちょう)の簡体字として「症」の文字を使う例があるので注意を要する。

 一方、日本では中世から既に「病證」「病症」「病証」の混用が見られる。それは江戸中期後半以降に「病證」が医書の名称に使用される際にもそのまま引き継がれた。

 「病證」とは「病の證(あかし、しるし)」であり、その場合の「證」は病の指標や兆しとなるものすべて含む概念である。つまり「證」は、症状や病名でもよいし、また病因や病機、病の部位などを含む、より抽象性の高い概念でもかまわないのである。

ポイント

  • 漢字の意味からすれば、「病證」が正しい!
  • 江戸中期後半以降から「病證」「病症」「病証」が混用されている!
  • 病証は、病の指標や兆しとなるものすべてを含む概念!

用語解説

本間祥白(ほんましょうはく):1904~1962。井上系経絡治療家。井上恵理門人。岡部素道、井上恵理、竹山晋一郎とともに、経絡治療の創成に決定的な役割を果たした。『鍼灸補瀉要穴之図』で柳谷素霊、岡部、井上の選穴論を要約し、論文「証決定の原則」で経絡治療の証の立て方を定式化し、証の内容を病態解析学の側から補完する目的で『鍼灸病証学』(1944)を編纂した。

井上雅文(いのうえまさふみ):1937~2007。井上系経絡治療家。井上恵理の長男として、初期経絡治療以来の問題意識と技法を受け継いだ。また本間祥白を師と仰ぎ、その病証学を継承した。1970年代に曲直瀨道三原著の『脈論口訣』と、南宋・陳言の『三因極一病証方論』に基づき、それまで未開拓の分野であった脈状診(人迎気口診)を体系的に再構築し、陰陽虚実、内外傷、予後、選経選穴などの各分野に画期的な成果を遺した。

『傷寒論』(しょうかんろん):中国・後漢の張仲景(ちょうちゅうけい)の撰。北宋以降、現在の書名と構成で流布し、中国では外感病の専門書として、日本近世においては万病に対応可能な医書として、高く評価された。病証の枠組みである三陰三陽(六経)は本書に発する。

『脈経』(みゃっきょう):中国・後漢末~西晋の王叔和の撰。200年代半頃成立。脈法を中心とする診法書。脈状判定のための基準である二十四脈状の確立や、病証と脈状の順逆などの記載は、後代の脈学に大きな影響を与えた。

『説文』(せつもん):『説文解字』の略称。中国・後漢の許慎(きょしん)の撰。100年頃成立。小篆文字を部首に分類し、造字の原理である「六書」(りくしょ)に基づき字形と文字の本義を解説した最初の字書。540部首に9353字を収録。

『玉篇』(ぎょくへん):中国・南朝・梁の顧野王の撰。543年成立。『説文』に次ぐ中国第二の字書。原本は散逸して一部(『原本玉篇』)を遺すのみ。現在の通行本は、北宋に大幅に改訂された『大広益会玉篇』で、542部に16917字を収録する。

『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう):一名「呂覧」(りょらん)。中国・秦の呂不韋(りょふい)の撰。26巻。先秦諸家の学説を集成した百科全書的思想書。

高誘(こうゆう):生没年未詳。中国・後漢末の学者。『戦国策』『呂氏春秋』『淮南子』の注解が伝わる。

段玉裁(だんぎょくさい):1735~1815。中国・清の学者。文字学と音韻学に優れ、『説文』の有名な注解書『説文解字注』を著した。

『辞源』(じげん):中国近代最初の大型辞典。1840年以前の古典文献の言葉を対象に、清末に編纂が開始され、陸爾奎らの編になる正編は1915年に、方毅らの編になる続編は1931年に刊行された。中華人民共和国成立後に修訂が重ねられ、2015年には第3版が刊行されている。

『素問』『霊枢』『傷寒論』は論理と抽象の最終段階

 体に表れた痛みや腫れ、その他の症状に固有の病名(病証名)を付け、その対処法を考えることは、医療の最初である。
 それは、中国古代の医書でいえば、前漢の出土医書『五十二病方』(1973年、長沙馬王堆三号漢墓より出土)の世界である。

 『五十二病方』に見るのは、顚疾(てんしつ)など数種を除けば、概ね外傷、あるいは痔のような体表の病である。中国医学の伝統的な枠組みでいえば、「外科」(現代医学の「皮膚科」、現代中医学風にいえば「外傷科」)あるいは金創科などに当たるものである。病の原因や機序に関する説明などもほとんど見られない。

 こうした病名(症状名)と治療法を結びつけた純粋な経験療法的な医療は、古今東西どこにもあり、中国固有のものではない。

 しかし、そうした経験療法的な医療を維持し続けることは難しい。あるいは、経験だけに支えられた医療の世界が維持されるのは、特殊な条件や環境の場合に限られている。診察のない治療を続けることは、臨床を行う者にとって難しいことなのである。

 実際、たとえば頭痛の患者を前にして、その原因や病態を解析・判断することなく、「頭が痛い」という症状だけを目標にして治療を続けることは、臨床を行う者にとって難しいことなのである。たとえば、頭痛に百会の施灸が効果があるとの治療経験を持っていたとしても、その経験はすぐに現実の症例によって覆されてしまう。

 まず百会に触れるだけで目眩その他の副作用を起こす症例が現れる。次に百会を使っても症状が少しも改善しない患者に直面する。

 病態解析をしない以上、どんな頭痛に百会が有効で、どんな頭痛に肩井や腎兪が有効であるかの判別はつかない。「経験」の名のもとに、ただ恣意的な選穴を繰り返すだけである。経験的な治療を行っている多くの臨床家は、何が効いて何が効かないのかわからないという不安の中にいるのである。

 中国古代においても、名称の付いた病は、すぐさま病の原因と機序に関する知識と考察の蓄積が始まり、時間とともに抽象性を高めたことは間違いない。そして、たとえば腰痛は単に「腰が痛む」だけのことを超えて、腎や足の太陽の脈の病となり、〈気〉あるいは〈血〉の病となり、〈寒〉や〈湿〉を原因とする病と捉えられるようになっていったのである。

 現在私たちが眺めている現存最古の伝承古典『素問』『霊枢』『傷寒論』は、論理と抽象以前の、素朴な感性の世界ではなく、論理と抽象の最終段階であったといってよい。

 しかし、中国古代医学の〈病の原因と機序に関する知識と考察〉には、難問が控えていた。それは『五十二病方』的な〈外科〉」の世界ではなく、〈内科〉的領域に生じた。

ポイント

  • 医療の最初は、症状に病名を付けて対処法を考えること!
  • 外科や体表の病には病名をつけて治療をし、その経験を積んでいった!
  • 『素問』『霊枢』『傷寒論』は、論理と抽象の最終段階だった!

用語解説

『五十二病方』(ごじゅうにびょうほう):1973年に中国湖南省の長沙市馬王堆の漢墓から出土した医学資料の一種。書題は、冒頭の目録に見える52種の病門に基づき研究者が附したもの。現在確認できる病門は45門で、犬や虫などの噛み傷、イボなどの皮膚疾患、泌尿器系疾患や痔疾、小児疾患を主たる内容とし、そこに薬物、外治法、灸法などの多くの施術法が列挙されている。

長沙馬王堆三号漢墓(ちょうさ まおうたい さんごう かんぼ):1973年に中国湖南省の長沙市から発掘された前漢時代の三基の墳墓のうちの一つ。この漢墓から『老子』や『易経』などともに、『足臂十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』『陰陽脈死候』『脈法』『五十二病方』など、前漢前期までの15種の医学資料が出土して、専ら伝承古典(中国風に言えば「伝世古典」)に基づいて考えられてきた中国古代医学についての認識に、決定的な影響を及ぼした。

金創科(きんそうか):「金創」はまた「金瘡」に作る。切り傷のこと。金創科は、主に戦傷を対象とする医療技術で、中国では元の時代に正骨兼金瘡科の科が立ち、日本でも中世後期から金創医が登場した。

『素問』(そもん):中国・後漢に原型が成立したとみられる中国医学の原典。黄帝医籍の一種として「黄帝素問」、漢代の『黄帝内経』に擬して「黄帝内経素問」とも呼ばれる。脈法や病証、穴法と並んで、雅な韻文で綴れた原理的な記述が多く、既に六朝時代から尊崇の対象であった。唐の王冰による改編によって道教的観点から読まれる傾向が強まり、また王冰が附加したとされる運気を論じた諸篇は、北宋以降の医学に大きな影響を及ぼしている。

『霊枢』(れいすう):『素問』と並ぶ中国医学の原典。古くは「九巻」「鍼経」と呼ばれたが、唐代に道教的な「霊枢」の書名が現れ、南宋以降、この書名が定着した。元明の時期に盛んとなった経脈や鍼法についての言説は、本書に基づくところが大きい。