東洋医学には解剖学的知見とは異なる基礎がある
『史記』の扁鵲倉公列伝に見える「病の応は大表に見(あらわ)る」という一節は、中国医学の本質を突いたものとして有名である。しかし『史記』では、その少し前に扁鵲の事跡として「病を視て、尽くに五蔵の癥結(ちょうけつ)を見る」との逸話が置かれている。
これは、実体臓器に生じた何かの病変を、体表の観察も問診も脈診もなく、透視で察知し得た秦越人扁鵲の常ならざる能力を称揚する一節である。しかし、実際は病の原因である体内を直接知ることの不可能性が象徴されていると読むべきである。中国古代医学では、病を生じさせる根源である〈内〉を実体として捉えることはできない。
なるほど、人は『霊枢』の腸胃篇、平人絶穀篇、『難経』四十二難に見られる「腸胃」や「蔵府」の容量や形状の詳細な記述を挙げ、『霊枢』経水篇の「其の死するや解剖して之れを視る可し」云々の一節を引き、『漢書』王莽伝の末に見える反逆者・王孫慶の剖検(16)を挙げ、北宋における反逆人・欧希範ら五十六人の処刑の際に描かれた蔵府図『欧希範五蔵図』(1045)とその補訂版である楊介の『存真環中図』(1113)に言及して、中国古代医学における解剖学の意義と重要性を強調するかもしれない。しかし、東アジアの古今の医書を通覧すれば、東洋医学の直接の基礎となったものが、そうした解剖学的知見でなかったことは自明である。
ポイント
用語解説
『史記』(しき):中国・前漢の歴史家・司馬遷の撰。前91年頃に成立。本紀、表、書、世家、列伝から構成される紀伝体の歴史書で、伝説上の五帝から前漢の武帝に至る歴史が描かれている。正史二十四史の第一に位置する。列伝の第四十五にあたる扁鵲倉公列伝は、中国古代医家の伝記というに止まらず、中国古代医学の体系を考える上における重要資料で、室町末期の禅僧・月舟寿桂(幻雲)、江戸期の医家・浅井図南や多紀元簡らによる詳細な注解がある。
扁鵲(へんじゃく):秦漢以前の様々な古典に事跡が見える中国古代の名医に与えられた象徴的呼称。『史記』扁鵲倉公列伝の秦越人が最も有名である。なお中国古代には扁鵲を祖と仰ぐ学統があったようで、『漢書』芸文志著録の『扁鵲内経』『扁鵲外経』、『脈経』巻第五の扁鵲の名を冠した諸篇、唐代の医学全書に多数見られる「扁鵲曰」する引用などは、「扁鵲医籍」と総称されることもある。また近年には、『素問』『霊枢』や近年中国から出土した医書にも、関連する内容のあることが指摘されている。
倉公(そうこう):中国前漢初期の実在の医家。『史記』扁鵲倉公列伝の後半にその伝が見える。また伝記に附された診籍(診療記録)二十五例は難解であるが、中国古代医学の貴重な資料として、また『素問』『霊枢』『難経』などの内容を理解するための手がかりとして注目されている。
秦越人(しんえつじん):『史記』扁鵲倉公列伝の前半にその事跡が見られる中国古代の医家。師匠・長桑君から術を受け継ぎ,諸国を偏歴して医療を行い、「扁鵲」と称せられたが、その事跡には伝説の色彩が濃い。唐代以降、『難経』の著者に擬せられた。
『漢書』(かんじょ):中国・後漢の班固の撰。妹の班昭と門人の馬続(馬融の兄)が補修して、82年頃成立。帝紀、表、志、列伝から構成される紀伝体の歴史書で、前漢の歴史が描かれている。『史記』に続く正史二十四史の第二の書である。中国の代表的歴史書として『史記』とともに「史漢」と併称された。
王莽(おうもう): 前45~後23。前漢の皇帝の位を簒奪し、8年に王朝・新を樹立した。儒教の経典『周礼』に基づく復古的な理想国家を目指したが、赤眉の乱などにより王朝は崩壊、殺害された。その伝記は『漢書』巻九十九の王莽伝に詳しい。
王孫慶(おうそんけい):王莽の討伐を目的とした翟義の乱(7)の一味の一人。捕らえられ、新の天鳳三年(16)に王莽の主導により生体解剖され、五蔵を量り、竹のへらで経脈をたどったと、『漢書』王莽伝に見える。正史における、最初で唯一の医学目的としての解剖の記録として注目される。
欧希範(おうきはん):北宋の慶暦四年(1044)に反乱を起こしたが、五年(1045)に捕らえられて、他の反逆人数十人とともに腹を割かれて処刑された。処刑に際しては、王莽以来絶えていた医学目的の解剖が行われ、派遣された画工による詳細な観察に基づく蔵府図『欧希範五蔵図』が作られた。
『欧希範五蔵図』(おうきはんごぞうず):北宋の慶暦五年(1045)に欧希範ら反逆者に対して行われた医学目的の解剖によって作られた蔵府図。南宋頃までは伝存したが、その後佚亡した。わが国鎌倉期の梶原性全『頓医抄』(1302)の巻四十四・五蔵六府形の第一図、中国明末の亡名氏著『循経考穴編』所載の「欧希範五臓図」に、僅かにその蔵府図の一端をうかがうことができる。
楊介(ようかい):北宋末の崇寧年間(1102~1106)に江蘇泗州で賊の処刑が行われた際、先行する『欧希範五蔵図』を補正する目的で、画工とともに派遣されて医学目的の解剖に立ち会った医家。楊介は、この時作成した蔵府図を、煙蘿子の蔵府図によって校訂し、これに十二経脈図を加えて、政和三年(1113)に新しい蔵府図『存真環中図』を完成させた。
『存真環中図』(そんしんかんちゅうず):北宋末の医家・楊介の撰した蔵府経脈図。「存真」は五蔵六府図、「環中」は十二経脈図を意味する。中国では明末頃まで伝存したが、その後佚亡した。わが国鎌倉期の梶原性全『頓医抄』(1302)の巻四十四に本書の全体が転載されていると推定されるほか、明後期から末期に成った亡名氏『循経考穴編』や胡文煥『新刻華佗内照図』、施沛『蔵府指掌図書』、王文潔『脈訣宗統』などにもその図が伝えられている。
人体は〈気〉によって説明することもできる
解剖学的知見は、漢代の医学に対して何ら本質的な影響を与えなかった。また、北宋以降の医学は、解剖によって何かを導き出そうとする方向には向かわなかった。古代中国の医家は、解剖に熱心でなかっただけでなく、その必要すら感じていないように見える。それはなぜか。
臓器、血管、血液などは現実の物であるが、それについての認識が進んでも、それだけで身体の生理や病候の理由を完全に説明することは、現代医学においてすら、なお困難である。まして古代中国医学においては当然である。近世までの医学のレベルにおいては、解剖学的知見のみに依拠していては、医学を形成することも、発展させることもできなかった。
解剖学に依拠できない中国古代の医家が行ったことは、体内にある現実の臓器や血管、血液といった実体から出発しつつ、その解剖の所見を、不可視の〈気〉としての〈五蔵〉や〈経脈〉に転化し、それを陰陽論と五行説でカテゴリー化することであった。
もちろん、〈気〉としての〈五臓〉や〈経脈〉には、出発点にあった現実の〈物〉のイメージがどこまでもつきまとっていた。したがって、〈五蔵〉は常に現実の五種の臓器と混同され、〈脈(経脈)〉はその字義からして血管のことと判断された。そうした正しいが誤った理解により、概念の混乱は何時の時代においても不可避であった。
明の張介賓は『類経』蔵象類・蔵象の中で、こうした身体観を「蔵は内に居り、形は外に見る」と概括している。〈内にある蔵〉とは(蔵気)のことであるが、それだけでなく、経脈や気血、津液など、あらゆる体内の〈気〉を指すと見てよい。
一方、〈外に現れる形〉とは身体各部とそこに生じる生理的・病理的現象、症状や脈状のことである。〈外形〉と〈内気〉は、陰陽的一体関係にあって、互いに影響を及ぼし、〈外形〉のすべては、不可視の〈内気〉によって実現するとされるも、その〈内気〉は〈外形〉を介してしか把握されない(病態像が構築されない)という構造となっている。
しかし、この構造こそが、中国医学の診察における重層性と柔軟性を保証したのである。
人体上に起こるあらゆる病理的現象の解析学である病證学とは、こうした考えを基礎とするものである。
ポイント
用語解説
張介賓(ちょうかいひん):1563~1640。会稽(浙江省紹興)の人。字は景岳。明代後期の著名な医家。医経研究ならびに明代の臨床医学に対して大きな貢献を行い、その影響は現在に及んでいる。主要な著作に『類経』『景岳全書』がある。
『類経』(るいきょう):明の張介賓の手になる『素問』『霊枢』の再編注解書。1624年成立。『類経図翼』と『類経附翼』を附刊。中国のみならず、日本近世の『素問』『霊枢』研究にも決定的な影響を及ぼした。近代の復興古典鍼灸である経絡治療成立時、経絡治療家は張介賓の『類経』の注によって『素問』『霊枢』を読んだ。