「病證」「病証」「病症」の違い

 1944年春、本間祥白は、近代以降最初の病証についての一書を刊行し、それを『鍼灸病証学』と命名した。書名に「鍼灸」の二字が冠されているのは、この書が、1941年に開始されたわが国の伝統鍼灸の再興、経絡治療創成の流れの中で編纂されたものだからである。

 しかし、本間祥白の打ち立てた病証学は、門人である井上雅文に継承されただけで、1970年代以降、わが国における病態解析の学は、中医弁証学に取って代わられた。

 病証学の構築には、臨床に基づく問題意識と東アジアの古医書に通じている必要があるが、ここ数十年間、わが国の臨床鍼灸師は、臨床体系の検証と東アジアの古医書の基礎研究を軽視してきた。1990年代の日本伝統鍼灸学会を舞台とした病証学研究の挫折、ならびに現在の病証学の衰退は、その結果である。

 このたび新たな病証学の構築にあたり、本間・井上の学統に連なる私は、彼ら二人の業績の継承と発展の意味をこめて、あえて本連載に「鍼灸病証学」の名称を踏襲することとした。

「證」は「あかし」「しるし」の意味

 病証という言葉の表記には、「病證」「病証」「病症」の三種があるが、字義の上からは「病證」とすることが正しい。

 管見によれば、「病證」という言葉の初出は『傷寒論』と思われる。その一例が傷寒例第三の「もし一剤を服して、病證猶在り、故にまさに復た本湯を作りて之れを服すべし」である。

 「病證」の用例はまた、『脈経』巻第六の各篇名「肝足厥陰経病證第一」や「胃足陽明経病證第六」などにも見ることができる。

 「證」は、『説文』に「告ぐるなり」、『玉篇』に「験(あかす)なり」とあって、「證験」、すなわち「あかし」「しるし」のことである。和語で「證」という文字を「明かし」と読むのは、疑いを正して證明する、すなわち證明の「證」と解するからであろう。

 また和語の「しるし」には、「験」以外に「徵」の文字をあてることもある。それは、「證」「徵」がともに韻母が蒸韻で声義が相通じる文字であることによる。

証は「いさめる」「ただす」の意味

 ところで、「證」という文字は、古くから「証」と書かれることが多い。ただ「証」は『説文』に「諫(いさ)むるなり」、また同書の「諫」条には「証(ただ)すなり」とあって、元来は諫言の義であるから、「證」の意味を別字「証」であらわすことは、誤用である。

 しかし、この誤用は、『呂氏春秋』巻第五・誣徒篇の高誘の注「證は諫なり」にまで遡る古いもので、古くから定着している。段玉裁が『説文』の注で「今俗、証を以て證験の字と為す」と述べるゆえんである。

 「症」は「證」の俗字であるが、中国医書においてこの文字が使われるようになるのは清代以降で、辞典への収録も『辞源』(1915)からと見られる。ちなみに、近年、中国で古い医書を排印する際、「癥」(ちょう)の簡体字として「症」の文字を使う例があるので注意を要する。

 一方、日本では中世から既に「病證」「病症」「病証」の混用が見られる。それは江戸中期後半以降に「病證」が医書の名称に使用される際にもそのまま引き継がれた。

 「病證」とは「病の證(あかし、しるし)」であり、その場合の「證」は病の指標や兆しとなるものすべて含む概念である。つまり「證」は、症状や病名でもよいし、また病因や病機、病の部位などを含む、より抽象性の高い概念でもかまわないのである。

ポイント

  • 漢字の意味からすれば、「病證」が正しい!
  • 江戸中期後半以降から「病證」「病症」「病証」が混用されている!
  • 病証は、病の指標や兆しとなるものすべてを含む概念!

用語解説

本間祥白(ほんましょうはく):1904~1962。井上系経絡治療家。井上恵理門人。岡部素道、井上恵理、竹山晋一郎とともに、経絡治療の創成に決定的な役割を果たした。『鍼灸補瀉要穴之図』で柳谷素霊、岡部、井上の選穴論を要約し、論文「証決定の原則」で経絡治療の証の立て方を定式化し、証の内容を病態解析学の側から補完する目的で『鍼灸病証学』(1944)を編纂した。

井上雅文(いのうえまさふみ):1937~2007。井上系経絡治療家。井上恵理の長男として、初期経絡治療以来の問題意識と技法を受け継いだ。また本間祥白を師と仰ぎ、その病証学を継承した。1970年代に曲直瀨道三原著の『脈論口訣』と、南宋・陳言の『三因極一病証方論』に基づき、それまで未開拓の分野であった脈状診(人迎気口診)を体系的に再構築し、陰陽虚実、内外傷、予後、選経選穴などの各分野に画期的な成果を遺した。

『傷寒論』(しょうかんろん):中国・後漢の張仲景(ちょうちゅうけい)の撰。北宋以降、現在の書名と構成で流布し、中国では外感病の専門書として、日本近世においては万病に対応可能な医書として、高く評価された。病証の枠組みである三陰三陽(六経)は本書に発する。

『脈経』(みゃっきょう):中国・後漢末~西晋の王叔和の撰。200年代半頃成立。脈法を中心とする診法書。脈状判定のための基準である二十四脈状の確立や、病証と脈状の順逆などの記載は、後代の脈学に大きな影響を与えた。

『説文』(せつもん):『説文解字』の略称。中国・後漢の許慎(きょしん)の撰。100年頃成立。小篆文字を部首に分類し、造字の原理である「六書」(りくしょ)に基づき字形と文字の本義を解説した最初の字書。540部首に9353字を収録。

『玉篇』(ぎょくへん):中国・南朝・梁の顧野王の撰。543年成立。『説文』に次ぐ中国第二の字書。原本は散逸して一部(『原本玉篇』)を遺すのみ。現在の通行本は、北宋に大幅に改訂された『大広益会玉篇』で、542部に16917字を収録する。

『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう):一名「呂覧」(りょらん)。中国・秦の呂不韋(りょふい)の撰。26巻。先秦諸家の学説を集成した百科全書的思想書。

高誘(こうゆう):生没年未詳。中国・後漢末の学者。『戦国策』『呂氏春秋』『淮南子』の注解が伝わる。

段玉裁(だんぎょくさい):1735~1815。中国・清の学者。文字学と音韻学に優れ、『説文』の有名な注解書『説文解字注』を著した。

『辞源』(じげん):中国近代最初の大型辞典。1840年以前の古典文献の言葉を対象に、清末に編纂が開始され、陸爾奎らの編になる正編は1915年に、方毅らの編になる続編は1931年に刊行された。中華人民共和国成立後に修訂が重ねられ、2015年には第3版が刊行されている。

『素問』『霊枢』『傷寒論』は論理と抽象の最終段階

 体に表れた痛みや腫れ、その他の症状に固有の病名(病証名)を付け、その対処法を考えることは、医療の最初である。
 それは、中国古代の医書でいえば、前漢の出土医書『五十二病方』(1973年、長沙馬王堆三号漢墓より出土)の世界である。

 『五十二病方』に見るのは、顚疾(てんしつ)など数種を除けば、概ね外傷、あるいは痔のような体表の病である。中国医学の伝統的な枠組みでいえば、「外科」(現代医学の「皮膚科」、現代中医学風にいえば「外傷科」)あるいは金創科などに当たるものである。病の原因や機序に関する説明などもほとんど見られない。

 こうした病名(症状名)と治療法を結びつけた純粋な経験療法的な医療は、古今東西どこにもあり、中国固有のものではない。

 しかし、そうした経験療法的な医療を維持し続けることは難しい。あるいは、経験だけに支えられた医療の世界が維持されるのは、特殊な条件や環境の場合に限られている。診察のない治療を続けることは、臨床を行う者にとって難しいことなのである。

 実際、たとえば頭痛の患者を前にして、その原因や病態を解析・判断することなく、「頭が痛い」という症状だけを目標にして治療を続けることは、臨床を行う者にとって難しいことなのである。たとえば、頭痛に百会の施灸が効果があるとの治療経験を持っていたとしても、その経験はすぐに現実の症例によって覆されてしまう。

 まず百会に触れるだけで目眩その他の副作用を起こす症例が現れる。次に百会を使っても症状が少しも改善しない患者に直面する。

 病態解析をしない以上、どんな頭痛に百会が有効で、どんな頭痛に肩井や腎兪が有効であるかの判別はつかない。「経験」の名のもとに、ただ恣意的な選穴を繰り返すだけである。経験的な治療を行っている多くの臨床家は、何が効いて何が効かないのかわからないという不安の中にいるのである。

 中国古代においても、名称の付いた病は、すぐさま病の原因と機序に関する知識と考察の蓄積が始まり、時間とともに抽象性を高めたことは間違いない。そして、たとえば腰痛は単に「腰が痛む」だけのことを超えて、腎や足の太陽の脈の病となり、〈気〉あるいは〈血〉の病となり、〈寒〉や〈湿〉を原因とする病と捉えられるようになっていったのである。

 現在私たちが眺めている現存最古の伝承古典『素問』『霊枢』『傷寒論』は、論理と抽象以前の、素朴な感性の世界ではなく、論理と抽象の最終段階であったといってよい。

 しかし、中国古代医学の〈病の原因と機序に関する知識と考察〉には、難問が控えていた。それは『五十二病方』的な〈外科〉」の世界ではなく、〈内科〉的領域に生じた。

ポイント

  • 医療の最初は、症状に病名を付けて対処法を考えること!
  • 外科や体表の病には病名をつけて治療をし、その経験を積んでいった!
  • 『素問』『霊枢』『傷寒論』は、論理と抽象の最終段階だった!

用語解説

『五十二病方』(ごじゅうにびょうほう):1973年に中国湖南省の長沙市馬王堆の漢墓から出土した医学資料の一種。書題は、冒頭の目録に見える52種の病門に基づき研究者が附したもの。現在確認できる病門は45門で、犬や虫などの噛み傷、イボなどの皮膚疾患、泌尿器系疾患や痔疾、小児疾患を主たる内容とし、そこに薬物、外治法、灸法などの多くの施術法が列挙されている。

長沙馬王堆三号漢墓(ちょうさ まおうたい さんごう かんぼ):1973年に中国湖南省の長沙市から発掘された前漢時代の三基の墳墓のうちの一つ。この漢墓から『老子』や『易経』などともに、『足臂十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』『陰陽脈死候』『脈法』『五十二病方』など、前漢前期までの15種の医学資料が出土して、専ら伝承古典(中国風に言えば「伝世古典」)に基づいて考えられてきた中国古代医学についての認識に、決定的な影響を及ぼした。

金創科(きんそうか):「金創」はまた「金瘡」に作る。切り傷のこと。金創科は、主に戦傷を対象とする医療技術で、中国では元の時代に正骨兼金瘡科の科が立ち、日本でも中世後期から金創医が登場した。

『素問』(そもん):中国・後漢に原型が成立したとみられる中国医学の原典。黄帝医籍の一種として「黄帝素問」、漢代の『黄帝内経』に擬して「黄帝内経素問」とも呼ばれる。脈法や病証、穴法と並んで、雅な韻文で綴れた原理的な記述が多く、既に六朝時代から尊崇の対象であった。唐の王冰による改編によって道教的観点から読まれる傾向が強まり、また王冰が附加したとされる運気を論じた諸篇は、北宋以降の医学に大きな影響を及ぼしている。

『霊枢』(れいすう):『素問』と並ぶ中国医学の原典。古くは「九巻」「鍼経」と呼ばれたが、唐代に道教的な「霊枢」の書名が現れ、南宋以降、この書名が定着した。元明の時期に盛んとなった経脈や鍼法についての言説は、本書に基づくところが大きい。


 


スポンサーリンク






 

コメントを残す