蔵府概念が医学の根底をなす

篠原孝市

人間の〈自然性〉は生存と衰退にある

 前回、私は、〈蔵府〉における最も根源的な要素、すなわち五蔵に所蔵される〈精気〉(先天の精気)の継承(生存の連続性)と、時間とともに不可逆的に進行する衰退が、人間の根本的な条件であると述べた。

 この生誕と老化の二つは、あまりに自明のことで、いまさら指摘するまでもないように思われるかもしれない。しかし、私たちは常に、この二つのことから目をそらそうとする。その二つが、私たちの生存を決定的に規定、制約し、自由な意志による選択を阻害するからである。

 親を選択できないこと、人が他人の助力なしには生きていけないこと(自助の余地がわずかであること)、瞬く間に高齢になり、心も体も機能しなくなること、しかしそれは、絶望でもなければ、悲劇でもない。なぜならば、〈精気〉の継承とその衰退(老化)こそ、人間の中に在って、人間を支える〈自然〉だからである。そして人間は〈自然〉に勝つことはできないのである。

 一人で生まれて一人で生きてきたと考えること、あるいは秦の始皇帝がそうであったように、人の作り上げる制度や文化と人間の生存の〈自然〉を同一視し、それを人為的に覆すことが可能であるかのように考えること、それは手の届かないものを求めるという意味で、確かに人間的であり、ロマンティックでもある。

 なるほど、その地点で人間は自らを自然と区別する。しかし、人間的であること、ロマンティックであることは、常に悲劇的なもの、痛ましいものなのである。

ポイント

  • 人は生誕と衰退から目を逸らす!
  • 人間は自然には勝てない!
  • 人間は手の届かないものを求める!

〈気〉の病いとしての〈五蔵〉〈六府〉病

 私はここまで、〈精気〉という概念をもとにして、人間の生病死を考えてきた。それは生死という長い過程を考えるうえでは有効であるが、生死の間に頻繁に起こる〈病い〉の複雑な構造を考えるうえでは十分ではない。〈精気〉には盛衰しかなく、しかも衰退の一本道だからである。

 〈病い〉の現れを分析し、そこから一定の認識に至るには、そのための拠点が必要となる。現代医学であれば、それは解剖学、病理学であり、そのための細胞や微生物に関する知識ということになろう。それは総じて可視の〈モノ〉についての認識から組み立てられた体系的知識である。

 これに対して、中国医学では、生理や病理の土台となる人間の体内をブラックボックスとみている。そうした中国医学における病態認識の拠点は、これまでも述べてきたように、不可視の〈気〉であり、そこから認識されるものが〈気の病い〉である。

 中国医学を初めとする東アジアの〈病い〉の診察の枠組には、『傷寒論』の三陰三陽病、『霊枢』経脈篇の経脈病証(是動病、所生病)、寒熱や虚実、気血や津液の〈病い〉などがある。あるいは、わが国近世後半においては後藤艮山の〈一気留滞〉説吉益東洞の〈万病一毒〉論吉益南涯の〈気血水〉説などさまざまであるが、当然のことながら、現代医学的な解剖学、病理学、細胞学、微生物学などを基礎とするものではない。理論を持ち出そうと、経験を主張しようと、そこで捉えられているのは、〈気の病い〉である。そして、〈気の病い〉の最も中核をなすものこそ、〈五蔵六府〉なのである。

ポイント

  • 精気だけでは〈病い〉の構造をとらえられない!
  • 現代医学は見えるものを、中国医学は見えないものを対象にしている!
  • 〈気の病い〉の中核は〈五蔵六府〉である!

用語解説

『傷寒論』(しょうかんろん):第1回の用語解説参照。

後藤艮山の〈一気留滞〉説(ごとうこんざんの〈いっきるたい〉せつ):後藤艮山(1659~1733)は江戸前期から中期前半の医家。名は達(とおる)、字は有成、号は艮山、養庵で、左一郎と通称した。名古屋玄医へ入門しようとして果たせず、苦学して「百病は一気の留滞より生ず」として、順気(気をめぐらせること)を治療の綱要とした。そしてその具体的方法として、服薬とともに、施灸、熊胆(くまのい)の服用、温泉、食事を重視した。〈一気留滞〉説の眼目は、『素問』『霊枢』『難経』に見える陰陽五行、蔵府経脈の説を「空論雑説及び文義通じ難き者」と見なし、併せてその延長線上にある南宋以降、明に至る金元李朱医学とその温補の説も否定することによって、〈気の病い〉を、陰陽五行説や蔵府経脈説などを介して構造的に理解するのではなく、〈気のめぐり〉という感性的な捉え方の一点に集約させることにあった。

吉益東洞の〈万病一毒〉論(よしますとうどうの〈まんびょういちどく〉ろん):吉益東洞(1702~1773)は江戸中期の医家。名は為則(ためのり)、字は公言、東洞と号し、周助と通称した。東洞は、伝統的な病因と病機の診察(病いの構造的な把握)に基づく医学を、陰陽論や五行説という「論理」の故に観念的として否定し、「論理」と無関係の〈証〉に基づく処方学を以てあるべき医学の姿と考えた。そこには、「論理」や「観念」を、人から実体を遠ざけて直に物を見せなくする虚構と考える、根深い日本土着の思想があったと考えられる。そのために東洞が必要としたのが、『史記』に見られる古代の伝説的名医・扁鵲の逸話と、五行説の色彩の薄い『傷寒論』であった。そして『傷寒論』の処方とそのしるしとなる証を以て診察治療のためのカテゴリーとした。これが「方証相対」であり、東洞の医学は証即処方の治療体系であった。

吉益南涯の〈気血水〉(よしますなんがいの〈きけつすい〉:吉益南涯(1750~1813)は江戸中期後半から江戸後期の医家。吉益東洞の嗣子。名は猷(ゆう)、字は修夫で、謙斎、南涯と号した。気血水理論を述べた『医範』(1825)がある。また門人の編纂した『気血水弁』『気血水薬徴』が写本で伝存する。南涯は『医範』において、父東洞の万病一毒論を継承する形をとり、〈毒〉を無形のものとし、その病態が有形の〈気〉〈血〉〈水〉に現れると考えたようである。しかしながら、実際には、病機の中核となる〈内気〉を、後藤艮山の〈一気〉でも、東洞の〈一毒〉でもなく、〈気〉〈血〉〈水〉の三つの〈気〉と仮説し、その循環と停滞で病いを説明するという大きな転換を行ったと考えるべきである。これは古くからある〈気血〉の〈血〉をさらに〈血〉と〈水〉に区分したと考えることができる。あるいは朱丹溪や初代曲直瀨道三の有名な「気血痰鬱」を発想の遠因とするものかもしれない。

〈五蔵〉〈六府〉以前の蔵府論

 ここで、現在行われている〈五蔵〉〈六府〉の説以前の、古い蔵府論について総括しておきたい。

 現行の蔵府論は、隋唐以降の新しい医書を読むには十分であるが、それをもって『素問』『霊枢』『難経』『脈経』などの古い医学書を読もうとすると、甚だ難儀する。『素問』『霊枢』『難経』などの秦漢以前の医学書は、現行の医学説の源基ではあるが、内容自体は後代のそれと大きく異なっているからである。その事情は、『十四経発揮』以降の綺麗に整序要約された経脈と経穴の学説では、『霊枢』の複雑な経脈概念や『甲乙経』(『明堂孔穴鍼灸治要』)の兪穴部位が理解できないのに似ている。

●〈五蔵〉

 〈五蔵〉と〈六府〉は最初から現在の肝心脾肺腎や胆小腸胃大腸膀胱三焦であったわけではない。その古い形態は秦漢以前の思想書にその例を見ることができる。

 例えば『淮南子』精神訓では人間の生誕に言及したあと、「是の故に肺は目を主(つかさど)り、腎は鼻を主り、胆は口を主り、肝は耳を主り、[王念孫の『読書雑志』ではこの後に「脾は舌を主る」を補う]……天に四時(しいじ)、五行、九解、三百六十六日有り。人にも亦た四支、五蔵、九竅、三百六十六節有り。天に風雨寒暑有り、人に亦た取與(しゅよ)、喜怒有り。故に胆は雲と為(な)り、肺は気と為り、肝は風と為り[王念孫は「肝」を「脾」に改む]、腎は雨と為り、脾を雷と為し[王念孫は「脾」を「肝」に改む]、以て天地と相參(まじ)わりて、心、これが主と為る」とある。

また『文子』九守にも『淮南子』を引いたとされる類文があり、そこでは〈五蔵〉と五官の関係部分は「肝は目を主り、腎は耳を主り、脾は舌を主り、肺は鼻を主り、胆は口を主る」となっている。

 これらの文章の〈五蔵〉には現行の説には見られない「胆」が入っている。また『淮南子』と『文子』は略同文でありながら、〈五蔵〉と五官の関係に異同があるが、その理由については別に述べる。

ポイント

  • 秦漢以前の思想書には〈五蔵〉に「胆」がある!

●「六蔵」

 古代中国には「六蔵」という捉え方があった。『荘子』斉物論に「百骸、九竅、六蔵、賅(そな)わりて存(あ)り。吾れ誰(いず)れとともにか親しむことを為さん」とあるのがそれである。

 『列子』仲尼篇の中にも「乃ち是れ我が七孔四支の覚(さと)る所、心腹六蔵の知る所なるかを知らず」、同書周穆王篇にも「百骸六蔵、悸(おのの)いて凝(さだま)らず。意(こころ)迷い、精喪(うしな)う」とある。この「六蔵」は腎を左腎と右腎に分けた結果と解釈されている。おそらく『難経』三十九難の「経に言う、府に五つあり、蔵に六つ有る者は、何ぞや。然るなり。六府は、正に五府有り。然して、五蔵も亦た六蔵有る者は、謂る腎に両蔵有るなり。其の左は腎と為し、右は命門と為す」によるものと思われるが、その正否は未詳である。

ポイント

  • 腎を左腎と右腎に分けた結果の「六蔵」!

●「九蔵」「十一蔵」

 さらに古代中国では、「九蔵」という言葉も使われている。たとえば『周礼』天官・疾医の「これを参(まじ)えるに九蔵の動を以てす」の鄭玄の注に「正蔵は五、又た胃、膀胱、大腸、小腸有り」とある。
 また『素問』の三部九候論篇に「神蔵は五、形蔵は四、合わせて九蔵と為る」、六節蔵象論篇にも「形蔵は四、神蔵は五、合わせて九蔵と為る」とあるが、三部九候論の王冰注では、「神蔵」とは五つの神気(魂神意魄志)を蔵するところの肝心脾肺腎の〈五蔵〉であり、「形蔵」とは頭角、耳目、口歯、胸中を指すとする。

 『素問』のなかでも、かなり後代の魏晋南北朝頃の篇とされる霊蘭秘典論篇には「十二蔵の相使(しょうし)貴賎」を問う経文に対して、「心は、君主の官なり。神明、焉(これ)に出づ。肺は、相傅(しょうふ)の官、治節、焉に出づ」のように、心、肺、肝、胆、膻中、脾胃、大腸、小腸、腎、三焦、膀胱とその役割が列挙されている。
 このうち「膻中」は、『霊枢』脹論篇に「膻中は、心主の宮城なり」とあることから、心の包絡のこととされる。

 また同じく後代の篇とされる六節蔵象論篇では、心、肺、腎、肝と脾、胃、大腸、小腸、三焦、膀胱を挙げて「凡そ十一蔵、決を胆に取るなり」と結んでいる。この二つの篇では、〈五蔵〉〈六府〉を並列的に扱い、それぞれの意味付けをしているように見える。

●奇恒の府、胃の意味

 『素問』の五蔵別論篇には「黄帝問うて曰く、余聞く、方士或いは脳髄を以て蔵と為し、或いは腸胃を以て蔵と為し、或いは以て府と為す。敢えて問う、こもごも相反すれども、皆な自ずから是と謂う。其の道を知らず。願わくは其の説を聞かん、と。岐伯答えて曰く、脳、髄、骨、脈、胆、女子胞、此の六なる者は、地気の生ずる所なり。皆な陰に蔵して、地を象どる。故に蔵して写さず。名づけて奇恒の府と曰う。夫れ胃、大腸、小腸、三焦、膀胱、此の五なる者は、天気の生ずる所なり。其の気は天を象(かた)どる。故に写して蔵さず。此れ五蔵の濁気を受く。名づけて伝化の府と曰う」とある。これは、〈五蔵〉や〈六府〉とは別に、「脳」「髓」「骨」「脈」「胆」「女子胞」の六者をひとまとめにして、〈奇恒の府〉というカテゴリーを設けている。「奇恒」とは、常と異なる、の意味である。

 このうち、「胆」を除く五つは『素問』『霊枢』諸篇の中に散見する言葉である。また「胆」は周知のように〈六府〉の一つである。しかし、この〈奇恒之府〉という概念は、『素問』『霊枢』の中ですら五蔵別論一篇に止まるマイナーなものであって、その後の医学の中でも臨床応用されることはなかった。にもかかわらず、南京中医学院が主編した『中医学概論』(1959)以来の現代中医学の中医学書や、日本の『新版東洋医学概論』(2015)において、〈五蔵〉や〈六府〉に続いて〈奇恒の府〉に一章を割いているのは、『素問』『霊枢』中に散見する「脳」「髓」「胞」という言葉を意味づけようとする意図というふうに善意に解釈したしても、不可解である。

 六府の中でも「胃」と「胆」、そして「三焦」は特別な位置にある。特に「胃」は「脾」とともに「脾胃」とも呼称され、また〈六府〉とは異なる〈腸胃〉という概念(現代医学の消化器系に類似した概念)を表す言葉としても使用されたことから、〈五蔵〉とともに特別の位置に置かれている。
 これらの経文は、五蔵論の先駆的状態をうかがわせるものとして興味深い。しかし、〈蔵府〉が後年の医学的基礎となるのは、これが陰陽論と五行説によって整序され、〈五蔵〉〈六府〉となってからのことである。

ポイント

  • 奇恒の府はマイナーな存在!
  • 胃は特別な存在!

用語解説

『十四経発揮』(じゅうしけいはっき):別名「十四経絡発揮」。三巻。滑寿(字は伯仁。1304~1386)著。中国・元末の1341年に成立した経脈経穴書。巻上では『霊枢』経脈篇所載の十二経脈の流注を述べ、本書の中核を為す巻中では十二経脈に督脈と任脈を加えた十四経脈の流注に沿って所属する経穴を配当して注解を加え、巻下では『素問』『難経』『甲乙経』『聖済総録』を典拠として、奇経八脈の流注と所属する経穴を列挙している。本書の内容には、元の忽泰必列著『金蘭循経』に依拠するところが大きいと見られる。経脈と経穴の関係を一義的に関係づけるための試行錯誤は、魏晋南北朝以降、宋代まで繰り返し行われてきたが、その試みは、北宋の『銅人腧穴鍼灸図経』と『聖済総録』を経て、本書によって一応の決着をみた。この十四経理論は、その後の中国鍼灸書に継承されたものの、『十四経発揮』自体は中国ではほとんど重刊されず、かえって日本の近世において20回以上版を重ね広く流布し、江戸初期から1970年代まで、経脈と経穴に関する標準的典拠書として高く評価された。

『甲乙経』(こうおつきょう):第3回の用語解説参照。

『明堂孔穴鍼灸治要』(めいどうこうけつしんきゅうちよう):『甲乙経』巻之三のほぼ全文と巻之七~巻十二所載の鍼灸主治条文、計24000字あまりを指す。書名は『甲乙経』の皇甫謐序による。後漢後期頃に成立したと考えられる、著者未詳の中国最古の経穴書『明堂』の一伝本で、『素問』『鍼経』とともに『甲乙経』を構成する要素となった。唐の楊上善が撰注した『黄帝内経明堂』(現存は巻第一のみ)、それを節略して引用した『医心方』巻第二、唐の王燾の『外台秘要方』巻第三十九、敦煌出土『黄帝明堂經』断簡などの『明堂』復元資料のうちでも第一にあげられるべきものである。

『淮南子』(えなんじ):第4回の用語解説参照。

『文子』(ぶんし):中国古代の思想書。一名「通玄真経」。『漢書』芸文志に著録された段階で既に偽託の可能性が指摘され、また通行本の文章の多くが『淮南子』と共通することなどを理由に、魏晋以降の偽作すら疑われてきたが、1973年に前漢の漢墓から出土した本書の竹簡の研究から、成立や内容についての再評価が進んでいる。

『荘子』(そうじ):一名「南華真経」。戦国時代の思想家・荘子(そうし)の思想を伝えるとされる思想書。西晋の郭象(?~312?)が刪定注解した現行のテキストは、内篇七篇、外編十五篇、雑篇十一篇からなるが、内篇以外の多くの部分については、弟子や後人による附加とされる。後世、道教の隆盛にともない、『荘子』は『老子』と並び称され、その原典とされるようになった。ただし、政治性の強い『老子』とは異なり、『荘子』は世俗を離れた無為自然を理想とし、徹底した相対主義の立場に立っている。

『列子』(れっし):一名「沖虚真経」。戦国時代の思想家・列禦寇(れつぎょこう)の思想を述べたとされる書で、『漢書』芸文志にも著録されているが、通行本は魏晋頃の偽託とされる。『老子』『荘子』などとともに道家の系統に属し、寓話によって説を為すことが多い。

『周礼』(しゅらい):周の官制を述べた書。孔子が理想とした周の政治家・周公旦に仮託されている。『儀礼』(ぎらい)、『礼記』(らいき)とともに、礼儀や制度を説いた「三礼」(さんらい)の一つに算えられ、また儒教の経典「十三経」の一つでもある。後漢の鄭玄(じょうげん)が注を、唐の賈公彦(かこうげん)が疏を著している。

鄭玄(じょうげん):「ていげん」とも読む。127~200。後漢の著名な学者で、『儀礼』『礼記』『周礼』のいわゆる「三礼」と『毛詩』(『詩経』)の注解が現存している。

古典の所出文字数から見た〈五蔵〉と〈六府〉の軽重

 〈五蔵〉は〈六府〉と併称されるが、『素問』『霊枢』において、あるいは後代においても、対等ではなく、中心はどこまでも〈五蔵〉である。それは、『素問』『霊枢』約150000字弱の中に、〈五蔵〉〈六府〉を構成する個々の言葉が何回使用されているかを見るだけでも歴然である。

 今、試みに張登本・武長春主編『内経詞典』(1990)に基づいて、各蔵府の所出回数を示せば、「肝」という言葉は251回(このうち「肝」の文字が単独で使用されている例は196回。以下同じ)、「心」は542回(314回)、「脾」は236回(185回)、「肺」は304回(248回)、「腎」は293回(222回)である。
 他方、「胆」は52回(42回)、「小腸」は46回(44回)、「胃」は324回(195回)、「大腸」は45回(42回)、「膀胱」は52回(50回)、「三焦」は38回(35回)である。
 ちなみに「腸」という言葉の使用例も222回(23回)と多いが、これは「腸胃」という言葉の所出が50回を数えるためである。

 参考に『難経』11945字(『王翰林集註黄帝八十一難経』の正文による)について、筆者監修の「『難経』総索引」(『難経古注集成』第6冊所収、1982 )に基づいて、同様の換算を行えば、肝は70回、心は93回、脾は43回、肺は67回、腎は55回である。胆は6回、小腸は18回、胃は34回、大腸は12回、膀胱は8回、三焦は15回である。

 秦漢以前の医書以外の書物に見える〈五蔵〉〈六府〉の所出回数は、〈五蔵〉では「心」が群を抜いて多く、「肝」と「肺」がこれに次ぎ、「脾」と「腎」は「肝」「肺」よりも相対的に少ない。また〈六府〉では「胃」が「肝」「肺」に並び、「胆」がこれに次ぐ。

 「心」の用例が桁外れに多いのは、〈五蔵〉的な意味ではなく、意識や感情、知識などの意味として使われたためである。また「胆」は、こころを打ち明けるとか、親しさを表す際に用いる「肝胆」の用例に使われているためである。一方、一般社会においては、小腸、大腸、膀胱、三焦などの認識は極めて低かったと考えられる。

ポイント

  • 『素問』『霊枢』に出てくる肝・心・脾・肺・腎を数えてみた!
  • 胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦も数えてみた!
  • 『難経』に出てくる回数も数えてみた!
  • 五蔵の出現回数はケタが違う!

用語解説

『内経詞典』(だいけいしてん):人民衛生出版社、1990年初版。史上初の本格的な『素問』『霊枢』の字句と語句についての辞典。2286字、5560語について、所出回数、発音と音韻(現代音、中古音、上古音)、解釈、用例、解釈のもとになった典拠をあげてある。これに続くものに郭靄春主編『黄帝内經詞典』(天津科學技術出版社、1991年)、周海平[等]主編『黄帝内經大詞典』(中医古籍出版社、2008年)がある。

『王翰林集註黄帝八十一難経』(おうかんりんしっちゅうこうていはちじゅういちなんぎょう):一名「難経集註」(なんぎょうしっちゅう)。五巻。『難経』に対する唐宋までに成立した古注をうかがう唯一の注解書。三国の呂広、唐初の楊玄操、北宋の丁德用、虞庶、楊康侯の五家の注が収められている。書名から北宋の王翰林(王惟一)の編纂のように見えるが、その関与は未詳である。南宋頃に成立したと見られるも、熊宗立の『勿聴子俗解八十一難経』や滑寿の『難経本義』の新注が出たこともあって中国では早くに失われた。他方、日本では江戸前期の慶安五年(1652)に重刊本が出て、これをもとに重刊された江戸後期刊本が中国に舶載されて、『守山閣叢書』『四部叢刊』に影印された。これとは別に、江戸末期に発見された、慶安本とは系統を異にする古写本も伝存する。ちなみに本書が日本で認識されるようになったのは、江戸末期の『経籍訪古志』への著録を除けば、1982年以
降のことである。


 


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2021年4月30日 コメントは受け付けていません。 鍼灸論考