篠原孝市
前回、私は、〈蔵〉と〈府〉が〈表裏〉という〈陰陽の関係〉にあること、その表裏関係は経脈にも見られると述べた。そして、この〈表裏〉という関係が意味するものは、〈蔵(陰経)〉から〈府(陽経)〉へ、〈府(陽経)〉から〈蔵(陰経)〉への病いの伝変(転換)を説明するための装置の一つであるとした。
付け加えておかなくてはならないが、この〈蔵(陰経)〉と〈府(陽経)〉の〈表裏〉関係は、実は中国医学で認識されている〈病いの深さ〉という認識全体の一部をなすものである。以下、〈表裏〉についての補足として、説明する。
〈病い〉の〈深さ〉〈原因〉〈病態〉
私たちが臨床の場で出会う症例は、その主訴が肩こりや腰痛などの症状であれ、現代医学的な病名のつくものであれ、その診察の直接の対象となるものは、患者が表すさまざまな所見(症状、脈状など)である。
中国医学的立場では、それらのさまざまな所見を直接診察の対象としない。また多くの場合、施術の対象とすることはない。所見とは、〈病い〉の〈所在〉〈深さ〉〈病因〉〈病態〉からなる病態像構築のための素材であって、それがなければ、中国医学的な施術は実現しない。ここで所在、深さ、病因といった言葉が〈〉でくくられているのは、それらが〈気の在り方〉という独特の基準によって見いだされたものだからである。
中国医学では、実際の身体とそこに現れている症状から病態像を構築する場合、〈気〉を指標として判断する。だから、〈病い〉の〈所在〉も、〈病い〉の〈深さ〉も、実際の身体における部位や深さではなく、〈気としての部位〉〈気としての深さ〉によって判定する。ちなみに、中国医学では、〈病い〉の〈所在〉は、〈病い〉の〈深さ〉と重なっている。
ポイント
- 中国医学では、病態把握は所見ではなく〈気の在り方〉を指標とする!
〈深浅〉の指標となるもの
〈深さ〉を考えるには、指標がなくてはならない。中国医学では、〈深さ〉を、まず陰陽の観点から二分する。
浅い部分は、五蔵に対応するところの「皮」「脈」「肉」「筋」「骨」の五つで構成されている。これら五つは、実際の身体の組織である皮膚や血管、筋肉や骨から作り出された深さを示す概念であって、実際の皮膚や骨などの概念を引きずっている。しかし、それは皮膚や骨ではなく、〈浅い部分の気〉なのである。もしこの説明が難解と感じられるならば、身体表層のイメージと考えてもらってもよい。
深い部分とは、〈蔵〉〈府〉〈経脈〉のことである。この中にも段階かあって、〈経脈〉は浅く、〈蔵〉〈府〉は深い。〈経脈〉も陰経は深く、陽経は浅い。〈蔵〉〈府〉の深浅はいうまでもない。重要なことは、これらもまたすべて〈気〉としての深浅、すなわち身体の深層のイメージなのであって、間違っても、実際の深さと混同してはならない。さらに注意しておかなくてはならないことは、この〈病い〉の深浅は、〈病因〉〈病態〉と深く関わりがあるということである。
ポイント
- 〈病いの深浅〉はイメージの深層浅層!
- 〈病いの深浅〉は実際の身体の深層浅層ではない!
- 〈病いの深浅〉は〈病因〉〈病態〉と深く関わっている!
〈病い〉の深浅と症状の軽重の関係
ところが厄介なことに、浅い部分の〈病い〉といっても、それは症状というレベルでは、経脈や蔵府の深い部分の〈病い〉とは区別できない。
「肩こりや腰痛なら鍼灸でもやっておけばよい」という医師や一般人がいる一方、「私の治療院では、肩こりや腰痛などの患者ばかりで、重い症状の患者は来ない」という鍼灸師がいる。それは、肩こりや腰痛といえば、軽微な症状にすぎないと思い込んでいるからである。しかし、それらの中には、いくら施術を繰り返しても治らないもの、時に重篤な病気に転じるものが含まれていることは、少し臨床をやればすぐにわかることである。その判断の指標となるものが、〈病いの深さ〉という考え方である。
注意しておかなくてはならないが、〈病いの深さ〉はそれがどんなものであっても、多くの場合、頭痛、肩こり、腰痛、軽い食欲不振などのありふれた症状としてしか現れない。また〈病いの深さ〉というものは、症状の激しさとは必ずしも関係がない。ぎっくり腰で動くこともできない状態であっても、それが本当に重い病状かどうかはわからない。
浅い部分の〈病い〉と判断できるのは、そのまま放置しておいても数日以内に症状が消えてしまって再び繰り返さない場合と、症状のある部位への施術や、特効穴治療によって簡単に治癒してしまう場合である。特定の手技やテクニックによってすぐに症状が寛解するものもこの部類に入る。つまり経過観察と対症療法によって解決ができるものであり、以後再発しないものである。その症状が劇烈であってもなくても、誰が施術しても、どんな施術をしても、その場で、あるいはそのうち治ってしまうような部類のものなのであるが、これは、しばしば鍼灸師に「自分の腕が上がった」と錯覚させ、道を誤らせることになる。
たとえば片手で重い書籍を掴んでいるうちに、前腕に激しい痛みが生じたとする。この場合、前腕に散鍼すれば、痛みがすぐに消えてしまう場合がある。打撲による腰痛や膝痛の場合にもそういうことが少なくない。しかし、原因がわずかのことであっても、「痛みがすぐ消える」となぜ言い切れないかといえば、それはその症状を起こした患者の、〈病いの深さ〉次第だからである。簡単な原因によって起こる病態は、必ずしも簡単な病態とは限らない。
肩こり、眩暈、腰痛、五十肩、捻挫など、日常的によく見ることがある症状であっても、症状が軽いからといって簡単に治癒しない場合や、よくなってもすぐにまた症状がぶり返す場合が少なくないのは、そのためである。特に厄介なものは、軽い症状がいつまでも続く場合である。
浅い部分の〈病い〉ではない場合、初めて経脈や蔵府を考慮した見方が必要となってくる。蔵府経脈の分野の〈病い〉について、日本近代以降、初めて、本格的に臨床で問題としたのは、1941年以降に創成された経絡治療である。
ポイント
- 〈病いの深さ〉はありふれた症状として現れる!
- 肩こりや腰痛は〈浅い〉〈軽い〉という思い込みをなくそう!
- 浅い部分の〈病い〉は経過観察と対症療法で解決ができる!
- 軽い症状に含まれる重篤な病気の判断の指標が〈病いの深さ〉!
経絡治療における深浅の認識
経絡治療では、まず病態を、浅い部分のそれと、〈蔵〉〈府〉〈経脈〉レベルのものに分別した。経絡治療の創始者の一人である井上恵理は、それを〈蔵病〉〈経病〉と名付けて分別している(『名人たちの経絡治療座談会』4の3)。この命名が適切か否かはさておき、病態を二分したその指摘は、臨床的に甚だ的確である。経絡治療が成立することによって、日本近代の鍼灸臨床は、初めて意識的に〈病いの深さ〉という問題に対処するようになった。
経絡治療が〈蔵〉〈府〉〈経脈〉をどのように構造化したかについて、ごく簡単に概括しておく。経絡治療こそ、わが国において初めて、〈蔵〉〈府〉〈経脈〉の〈表裏〉という概念を援用することによって〈病い〉の解析を行った現代鍼灸だからである。
経絡治療が、病態認識(証)の内容を〈十二経脈の虚実〉としたことは、周知の通りである。しかし、その方法は、十二本の〈経脈〉から虚あるいは実と見なす一本の〈経脈〉を見いだすというようなものではなかった。
経絡治療では最初から、〈経脈〉の虚実(証)を有機的、構造的なものと考えた。それは中国医学の古典を読み込んだ結果なのか、そうした問題意識が中国医学の古典、たとえば『難経』六十九難や七十五難などを引き寄せたのかはわからない。いずれにしても、六十九難や七十五難などの関係の論理は、『素問』『霊枢』に見える〈蔵府経脈〉の表裏の論理とともに、診察と選経選穴に一定の方向性を与え、施術とその効果判定が無秩序になるのを防ぐために、不可欠だったのである。
ポイント
- 深い〈病い〉は経脈や蔵府を考慮した見方が必要!
- 深い〈病い〉を臨床で問題としたのが経絡治療!
- 経絡治療は〈表裏〉の概念を援用して〈病い〉を解析した現代鍼灸!
- 六十九難や七十五難などの関係の論理は秩序立てに不可欠だった!
経絡治療の病態認識における〈表裏〉と〈五行〉の援用
経絡治療の病態認識(証)における〈表裏〉と〈五行〉の援用は次のような手続きで行われた。
①まず『霊枢』経脈篇にならって〈蔵〉〈府〉と〈十二経脈〉を一対一に関係づける。つまり〈蔵〉〈府〉と〈十二経脈〉を別のものとせず、〈蔵府経脈〉と見なすということである。経絡治療では、〈蔵〉と〈陰経〉、〈府〉と〈陽経〉は大略同義である。その理由は、『素問』『霊枢』、特に現在の〈経脈〉についての考え方の基本となっている『霊枢』経脈篇や、それを継承した十二経脈理論(唐代の『明堂』、元末の『十四経発揮』など)の中で、〈蔵府〉と〈経脈〉が一対一の関係で結びつけられていることによる。
もちろん、一方では、〈蔵府〉と〈経脈〉には、その出自に違いがあること、また〈蔵府〉と〈経脈〉には、その出自においても(たとえば〈経脈〉には、〈五蔵〉のいわゆる色体表的要素はない)、また〈病い〉が生じた場合の、その〈深さ〉に違いがあるとの認識があった。しかし、基本的に同義と考えたからこそ、〈手少陰心経の虚証は採らない〉〈足少陰腎経の実証も採らない〉という〈経脈〉レベルでは決して出てこない、〈五蔵〉レベルの治療法則が出てきたのである。誤解を恐れずにいえば、〈蔵府〉は深いところにある〈経脈〉であり、〈経脈〉は浅いところにある〈蔵府〉なのであった。
②既に述べたように、〈蔵府〉と〈経脈〉の間には一体であるという側面と、異なる面がある。しかし、本連載第4回で述べたように、〈蔵府〉、特に〈蔵〉は「生命の根源としての精気」と結びつけて認識されている。そして本連載第5回で述べたように、この〈精気〉は時間とともに、あるいは内外傷によって、常に虚していく過程にある。
また「内傷がなければ外邪は入らない」という考え方があるように、あらゆる〈病い〉はそれがどんなものであれ、根底に〈蔵府〉の虚があると考えたのである。それは日常の鍼灸臨床で扱う〈病い〉の在り方にも合致するものであった。そこで、すべての〈病い〉の基本を、〈蔵〉〈府〉の虚、特に〈五蔵〉の虚(陰虚)におくこととしたのである。五蔵の虚レベルの〈病い〉とする判定は、睡眠・食事・大小便、月経などの変化の有無を指標とする。
③鍼灸の治療というものは、それが一穴に対する施術であれ、それがどんなよい結果と悪い結果は引き起こすのかは、なかなか測りがたいものである。たとえば肩こりという主訴はとれたのに、逆に頭が重くなったなどといった場合に、それをどう考えればよいのかということは、なかなか難問である。現実の鍼灸では「ある穴に施術したら、かくかくしかじかの効果があった」といった単純な話にはならないのである。
このことは〈蔵府経脈〉を運用しようとした古代中国においても、1940年代の日本の経絡治療においても同様であった。足の太陰脾経が虚していると判断して、脾経を補ったら食欲不振は少し軽くなったような気がするが、両足がとてもだるくなった等々、刺鍼や施灸によって全身に何が起こるかはなかなか測りがたい。一つの〈経脈〉への施術は、当然、〈経脈〉全部を動かすからである。それは「経験を積めば、わかってくる」といったような簡単なものでない。そこで、〈蔵府経脈〉の一見無秩序な反応に対応するため、古典に書かれている枠組である〈表裏〉や〈五行〉が求められた。そしてすべての〈病い〉を、〈蔵府経脈〉の〈表裏〉関係および〈五行〉関係によって、仮説として位置づけるようにしたのである。
言い換えれば、〈蔵(陰経)と府(陽経)の間の関係〉〈蔵(陰経)と蔵(陰経)との間の関係〉という観点から位置づける。具体的には肺・大腸、脾・胃といった〈表裏〉一対の関係、肺・脾、肝・腎といった五行の相生関係、肺と肝、肝と脾といった五行の相剋関係によって、〈蔵府経脈〉の〈病い〉を構造的に整理するのである。
④そして病態を、陰虚を土台として、陰陽虚実で分別し、a.陰虚(たとえば肝虚・腎虚、肺虚・胆虚など)、b.陰虚陽実(たとえば肺虚・大腸実など)、c.陰虚陰実(たとえば肺虚・肝実など)、d.陰虚陽虚(選経的には陰虚と同じ)に四分する。
⑤ここで注意しておきたいが、b~dの三段階は、陽実、陰実、陽虚と呼ばれようとも、いずれも陰虚のバリエーションであり、その虚実補寫は根底にある陰虚を回復させることを目的とする。
ポイント
- 経絡治療は〈蔵〉〈府〉と〈十二経脈〉を〈蔵府経脈〉と見なした!
- 〈蔵府経脈〉だから〈五蔵〉レベルの治療法則となった!
- 〈蔵府〉は深いところにある〈経脈〉!
- 〈経脈〉は浅いところにある〈蔵府〉!
- 深い病いは陰虚、陰虚陽実、陰虚陰実、陰虚陽虚に分類できる!
近年の教科書に書かれた〈表裏〉の説明について
今回の最後に、最近の日本の『新版 東洋医学概論』(2015年)において、どのように〈表裏〉が扱われているかを見てみよう。その〈表裏〉の認識と、前述の経絡治療の認識の違いを比較していただきたい。
たとえば、第2章・第2節・「Ⅱ.蔵象五臓とその機能に関連した領域」では、肺と大腸の表裏関係については、次のように説明されている。
「肺と大腸は表裏関係にあり、経脈を通じて互いに連絡し、生理的にも病理的にも密接な関係にある。肺の粛降は大腸の伝導を助け、津液を輸布することにより大腸の潤いを維持している。肺の機能が失調すると、大腸の伝化機能に影響を及ぼし、便秘などの症状が起こる。また、大腸の通りが悪いと肺の粛降機能に影響を及ぼし、咳嗽・喘息・胸満などが起こる。」
この説明は、呼吸に関する症状を〈肺〉、排泄に関する症状を〈大腸〉のしるしとするなどの点において、一見、これまで私が述べてきたことと変わらないように見えるかもしれない。しかし、私にはこの説明は、倒錯した見解、あるいは現代医学風に粉飾された説明に見える。
「経脈を通じて互いに連絡」しているから「肺と大腸は表裏関係」、とは、絡脈を想定した説明と思われるが、「互いに連絡」しているのは、肺(手太陰)と大腸(手陽明)だけではない。手陽明と足陽明も連絡しているし、そもそも現在の経脈説の典拠である『霊枢』経脈篇では十二経脈はすべてがつながって、環の端なきがごときものとなっているのであるから、この説明は説得力を欠く。
そもそも、経脈篇の絡脈自体、経脈に比べて実在感が乏しい。まして、その絡脈を持ち出して〈表裏〉を説明することは、現実感の薄い説明であり、臨床に即した理由になっていない。私は、肺と大腸の間の関係や病態の移行を説明するために、手太陰と手陽明という経脈レベルの間に〈絡脈〉を仮定したと考える。そのように考えるほうが、現実的ではないだろうか。
前記『新版 東洋医学概論』の後半の、肺の〈機能〉から〈表裏〉を説明する部分についても、吟味の必要があるが、それは今後、機会をみて行うこととしよう。
ポイント
- 『霊枢』経脈篇では十二経脈はすべて互いに連絡し、つながっている!
- 絡脈は表裏関係や病態の移行を説明するために仮定された!
- 絡脈で〈表裏〉を説明することは現実感が薄い!