篠原孝市
〈先天の精気〉――連続し、受け継がれる
前回、私は、人体における〈内気〉は、陰陽論に基づき、〈蔵府〉という一体不可分の〈関係〉として構造化されたと述べた。
その〈関係〉において、〈府〉(陽性の〈内気〉)は食物の摂取から大小便の排泄に至る過程の総体を象徴するものであり、〈五蔵〉(陰性の〈内気〉)の役割は、〈六府〉の助けも得て〈五蔵〉に所蔵される〈精気〉という一語に集約されている。それは、①生殖、②食物の摂取、③大気(空気)の摂取からもたらされたものであり、先天的なものと後天的なものがミックスされたものである。
人間が生まれる最初の段階から持っている〈精気〉、いわゆる〈先天の精気〉について、『霊枢』本神篇には「生の来たる、これを精と謂う」、経脈篇には「人始めて生ずるときは、先ず精を成す」とある。決気篇ではさら詳しく「両神相搏(まじ)わりて、合して形を成す。常に身に先だちて生ずる、これを精と謂う」とある。
この「両神」とは陰陽のことであり、男女のこと、「搏」は「交わる」を意味する。本神篇にはこれに類似した経文「両精相搏(まじ)わる、これを神と謂う」があるが、これもまた「両精」は陰陽の精のこと、「神」とは「神明」、すなわち人間の人間らしい身心の在り方のことを指す。『素問』上古天真論篇には具体的に「精気溢し寫し、陰陽和す。故に能く子有り」とある。この「精気」は体外に出れば目に見える精液となるのである。
これらの経文が意味することは、人間は、最初から自分以外の人間、広くは人間の長い生存の歴史における連続性の中に置かれており、その連続性に支えられて、初めて人間らしい存在となるのである。そのことは、私たちにとって時に桎梏(しっこく)でもあり、時に慰安でもあるが、〈精気〉を受け継ぐことで生存しているという事実を振り捨てることはできない。しかも、その〈精気〉は受け継がれた瞬間から失われ始めるようなものなのである。
ポイント
- 〈精気〉は生殖、食物の摂取、大気(空気)の摂取からもたらされる!
- 〈精気〉は先天的なものと後天的なものがミックスされたもの!
- 人間らしさとは連続性!
〈五蔵〉の〈精気〉が虚していく過程
〈五蔵〉の〈精気〉が虚していく過程について、『素問』上古天真論篇では男女別に七あるいは八の倍数で年齢を設定し、「女子は七歳にして、腎気盛んに、歯更(あらた)まり、髪長す。二七にして天癸至り、任脈通じ、太衝脈盛んにして、月事時を以て下る。故に子有り。三七にして腎気平均なり。故に真牙生じて長極す。四七にして筋骨堅く、髪長極にして、身体盛壮なり。五七にして陽明の脈衰え、面始めて焦れ、髪始めて墮つ。六七にして三陽の脈、上に衰え、面、皆な焦れ、髪始めて白く、七七にして任脈虚し、太衝脈衰少し、天癸竭(つ)き、地道通ぜず、故に形壊れて子無し。丈夫は八歳にして、腎気実し、髪長し歯更(あらた)まる。二八にして腎気盛んに、天癸至り、精気溢し寫し、陰陽和す。故に能く子有り。三八にして腎気平均、筋骨勁強なり。故に真牙生じて長極す。四八にして筋骨隆盛、肌肉満壮なり。五八にして腎気衰え、髪墮ち歯槁(か)る。六八にして陽気、上に衰竭(すいけつ)し、面焦れ、髪鬢頒白す。七八にして肝気衰え、筋動くこと能わず、天癸竭き、精少く、腎蔵衰え、形体皆な極まる。八八にして則ち歯髪去る」と述べている。
また『霊枢』天年篇にはこれを十年単位で描いて「人生まれて十歳にして、五蔵始めて定まり、血気すでに通ず。其の気、下に在り。故に好みて走る。二十歳にして、血気始めて盛んに、肌肉まさに長ず。故に好みて趨(はし)る。三十歳にして、五蔵大いに定まり、肌肉堅固にして、血脈盛んに満つ。故に好んで歩む。四十歳にして、五蔵六府、十二経脈、皆な大いに盛んに以て平らかに定まり、腠理始めて疏(おろそ)かに、栄華頽落し、髪頗(すこぶ)る班白に、平盛にして揺(ゆ)らがず。故に好んで坐す。五十歳にして、肝気始めて衰え、肝葉始めて薄く、膽汁始めて減じ、目始めて明かならず。六十歳にして、心気始めて衰え、善く憂悲し、血気懈惰(かいだ)す。故に好んで臥す。七十歳にして、脾気虚し、皮膚枯る。八十歳にして、肺気衰え、魄離(はな)る。故に言(こと)、善く悞(あやま)る。九十歳にて、腎気焦がれ、四蔵経脈空虚す。百歳にして、五蔵皆な虚し、神気皆な去り、形骸独り居り、而して終る」とある。『素問』陰陽応象大論篇にも同内容の「年四十にして陰氣自ら半(なか)ばし、起居衰う。年五十、体重く、耳目聡明ならず。年六十、陰痿し、気大いに衰え、九竅利せず、下虚上実し、涕泣倶に出づ」との経文が見られる。
以上の三つの経文によれば、〈五蔵〉の〈精気〉は三十五歳あるいは四十歳頃から衰退が始まり、各蔵の〈精気〉が次々に虚していくことで、老化が進むとされている。しかし、中年に始まるとされる〈精気〉衰退の表れは、その時期に初めて生じるものではなく、それ以前からひそかに進行していたものが、ただその時期に顕在化してきただけと考えることができる。
私はこれらの経文を踏まえつつも、自分の臨床経験も加味して、〈五蔵〉の〈精気〉の虚を次のように読み替えたいと思う。
生まれたばかりの乳児は、他人の加護を一瞬も欠かすことのできない、究極の弱い存在である。身心ともに究極の受動的状態であり、こころの状態としては、なお両親との一体感の中にある。しかし、〈精気〉という観点からすれば、乳児こそ根源的な〈精気〉が最も充実している瞬間とみるべきである。この〈精気〉の充実を、乳児の起居動作その他から、陰陽の観点からいえば「〈陽気〉の最も盛んな状態」と呼んでもよい。乳児の弱さとは、ただ後天の気血がいまだ決定的に不足していることから来るものであって、根源的な〈精気〉の充実は、表面上の筋力とか運動能力、体の大きさとは無関係である。しかし、私たちは、どうしても表面上の現れに目を奪われがちである。
乳児は食物の摂取と、親やその他の人間との交わりを経て、時間とともに成長する。体は大きくなり、やがて歩けるようになり、知識が増え、言葉をしゃべることができるようになる。生まれてから十数年も経てば、鍛えれば鍛えるほど、筋力は増強し、運動能力は向上する。知的な能力もそうである。同時に、身心ともに両親からの分離が行われる。中国医学風にいえば、〈後天の精気〉あるいは〈気血〉はどんどん充実する。そして、それが、静かに進行する〈先天の精気〉の衰退を見えなくさせてしまうのである。
若さの盛り、元気のただ中にある若年者でも、ふとそうした〈精気〉の消耗を感じることがある。それは多くの場合、病気、あるいは一時的な身心の消耗の際に突然起こることがある。二十歳で「もう若くない」と感じたり、三十歳で「人生を降りる」と考えることは、高齢者が考えるほど感傷的でも滑稽でもない。若さというものは、確かに輝かしいものであるが、それがやがて失われてしまうことが定まっているという意味で、痛ましいものでもある。
ポイント
- 『素問』上古天真論篇には〈五蔵〉の〈精気〉が虚していく過程が記されている!
- 女は七、男は八の倍数の年齢での変化を示した、あの条文にも〈精気〉が!
- いくら若づくりしても〈精気〉は失われている!
強い外見、弱い内面――過労としての〈精気〉の虚
生まれた瞬間から始まる〈精気〉の虚の進行とは別に、通常の生活自体が〈精気〉の虚を進行させる。しかし、それは多くの場合、一時、一期のものであり、いわば後天の精気に関わるものである。
そもそも人間は、生きていれば、身心に大きく傷を負ったり、弱さを抱え込むことは避けられない。しかし、人間は身心の弱さ、あるいは精神的な貧困の意識があればあるほど、かえって肉体や精神が強まるものである。本当に強くあるためには、弱くなくてはならないというパラドックスがそこにはある。身心に何かの傷を負った人間が、強硬な性格となり、強靱な肉体を持つことは珍しくない。私の臨床経験からいっても、強い精神や肉体を持つ人間は、例外なく、それに対応した弱さを持っているものである。
もちろん、過労やストレスも長期間にわたり、過剰なものであれば、それは根源的な〈精気〉の虚損につながる。第一次産業や第二次産業中心の社会であれば、肉体的な過労、過重労働が原因となる。日本でいうならば、1870年代から1950年代以前の社会がそれにあたる。しかし、第三次産業主体の社会に転換して以降、私たちを疲労困憊させるものは、主として睡眠不足と、自分あるいは他人との関係のなかの精神的葛藤である。この精神的葛藤の問題については、今後の連載の中で詳しく述べることにする。
ポイント
- 精神的な貧困で肉体や精神が強まる!
- 本当に強くあるためには、弱くなくてはならない!
- 睡眠不と精神的葛藤で〈精気〉は失われる!
老化は病である
〈五蔵〉にある〈精気〉の虚とは軽い疲れといったようなものではない。〈精気〉の虚とはつまり不可逆的な老化である。そして、老化そのものが一種の病気なのである。『素問』や『霊枢』の中には、五蔵の支配領域として、五主(筋、脈、肉、皮、骨)であれ、五液(涙、汗、涎、涕、唾)、五竅(目、舌、口唇、鼻、耳)であれ、自分の意のままにならないもの、鍛えられないものが挙げられているのは、象徴的である。年々歳々の絶対的な〈精気〉の虚の進行は、それらの領域に、様々な異変をもたらす。その土台の上に、過労やストレス、あるいは寒暑といった病因とも相まって、様々な病気が生起する。
世間には、〈鉄の男〉と見なされているような人間たちがいる。激しい運動で鍛えた体、他人の非難にも揺るがない強い意志、何事も躊躇無く行う実行力、極端に少ない睡眠時間でもやっていける体力、高齢にもかかわらず水泳をしたり、大型バイクを操ったりする若さ……。それは、しばしば、弱さから逃れられない私たちの、とめどない憧憬と拝跪の対象ともなる。
しかし、〈五蔵〉の〈精気〉の虚という東洋医学的な見地からすれば、そうした〈鉄の男〉は、一つの幻影にすぎない。人は誰もそのように生きることはできないからである。
自分は強いと思い込み、あるいは他人にそのように見られ、体を鍛え続けているにもかかわらず、年々歳々足腰は弱り、手は震え、手すりにつかまってようやく階段を上っても、息切れはなかなか止まず、一夏ごとに視力は低下し、耳は鳴り、そのうち聞こえなくなってくる。特に食欲の減退と睡眠の障害は決定的である。いや、体力の減退とともに、眠ることも食べることもできなくなる。食欲も睡眠も、大小便の排泄も、すべて自分一身のことでありながら、自分の意のままにならない。そして、その果てにやってくるのは、生死の問題である。
〈精気〉の虚の結末ということを考える時、私はいつも秦の始皇帝のことを想起する。司馬遷の『史記』秦始皇本紀には、中国全土を統一し、諸国を制圧して絶対の権力を得、領土を拡張し、様々な改革を行っていく始皇帝のエネルギッシュな活動を活写する中に、前後の脈絡もなく「韓終、侯公、石生に仙人不死の薬を求めさせた」という一句がさりげなく差し込まれている。やがて始皇帝は病に倒れる。死の前、「始皇帝は死を嫌ったので、群臣は誰も死ということを口にしなかった」とあるのが印象的である。
ポイント
- 『素問』や『霊枢』の五蔵の支配領域は「意のままにならない」もの!
- 鉄の男も美魔女もまぼろし!
- 強靱だった秦の始皇帝は死を嫌い、病に倒れた!
〈蔵府〉と〈精気〉の思想の意味
中国医書における〈蔵府〉と〈精気〉についての言説には、人間の生理(蔵象)あるいは病態(病証)を一つの全体像として説明するとともに、生病死の全過程に関する内容が込められている。また、今後、詳述するように、人間と自然との関係や、人間の意識についての?説明にも重要な意味を持っている。それは『霊枢』経脈篇に詳述されている経脈学説の空間的な病理理論や、『傷寒論』の三陰三陽の時間的な病位理論にはないものである。
ちなみに、〈蔵府〉や〈五蔵〉についての記載は、医書以外にも散見する。しかし、経脈理論と三陰三陽の病位理論は医書にしか見られないように思われる。これは一つの仮説であるが、〈五蔵〉とその〈精気〉の理論は、道家思想の側からもたらされたもの、経脈学説や三陰三陽の病位理論は、鍼灸と湯液の専門的な実践から生まれたものかもしれない。
ポイント
- 〈蔵府〉と〈精気〉は生病死の全過程に関係する!
- 〈五蔵〉とその〈精気〉の理論は道家思想が根本か?